小学一年生

刃物の使い方

小学1年生の頃だったと思います。

竹の枝を払う為や雑木を切る為に、鉈を使うのですが、この頃から鉈の使い方やのこぎりの使い方を教えて貰ったり、練習をしたりし、徐々に慣れるとジャガイモやりんごの皮むきなど、包丁の使い方の練習が始まるのです。

刃物は包丁以外、全部、外側に向かって使うのですが、力が足りないと切れないので、やっては駄目と注意された方法を、自分の方に向かって刃を向けて力を入れた方が、楽に切れるので、隠れて逆に切ると、勢い余ってよく自分の手を切り、血が出ると「刃を絶対に自分に向けるなと言っただろう」と怒られるので、切った場所を手で握りしめて、血が噴き出さないように、血が見えないように隠した事も、何回もあったのです。

何故こんな練習をするのかって?それは、小学生に入れば、家の手伝いも、家事手伝いもするし、刃物を使う仕事が増えるので、その練習だし、大人になる為に、自立の為に必要な練習だから、どこの家でも、どの家の子供でも練習をしたので、幼い時から起用に出来る子が多かったのです。

それに、小学校に行くようになれば、その当時10円の子供用の小刀を買って、鉛筆を自分の小刀で削るので、綺麗に削れる人ほど、練習をした人でした。

何でも危険だといって、やらない、やらせないのではなく、我が子が生きる為に、何でも練習して、我が子が使えるように厳しく使い方とルールを教え、どの家でも練習をさせていましたね。それが、本当の我が子や孫への愛情ではないでしょうか。

初めての筋肉痛

小学校に通い始めた私は、多くの小学生達と広い校庭が嬉しくて、駆けずり回って遊んで居ました。

そんなある日、朝起きた私の体は、あちこちが痛いし、特に足を動かすたびに、激痛で動けなかったのです。

学校まで片道4kmもあるので、私は「歩けないと」半べそで親に訴えたのです。すると、私に甘い?優しい爺ちゃんが、耕運機にトレーラーを繋いでいたので、耕運機で送ってくれる事になり、荷台に乗って学校まで送ってくれました。

最初の授業の頃は、痛みが強いので、のろのろと動いていたのですが、徐々に痛みが引いていき、午前中で授業が終わり、放課後、下級生の児童が、みんなで何チームかを作り、リレーの競争を始めたのです。人数が足りないとの事で、私も仲間に入れられ、痛みを耐えながら夢中に走っていたら、痛みが全く無くなり。全力で走り回っていたのです。

そこへ爺ちゃんが耕運機で迎えに来てくれたのですが、私が走り回っている姿を見て、がっかりした顔で私を見つめ、ぼそぼそと何かを言ったのですが、せっかくなので、帰りも荷台に乗って帰ってきたのでした。

後に運動をすると、乳酸が溜まるので、ゆっくり運動をしてほぐせば、筋肉痛にはならない事を知りましたが、中学生になると、運動部に入った私は、今度はこむら返りで何度も苦しんだのでした。

爺ちゃん、いつもありがとうね。

きつねうち温泉

小学一年の秋の頃、3歳の弟と近所の婆ちゃん達と一緒に、石川町にある「きつねうち温泉」に行きました。

このきつねと言う珍しい名前に興味を持ったので、この時の記憶が残ったのでした。

温泉には電動椅子のマッサージ機など数種類があり、やってみましたが、体にコリなど無いので、くすぐったいだけでした。

子供の私達は、温泉から出ると、やる事もなく、すぐに時間を持て余してあちこちと探検していると、東京からこの温泉宿で湯治をしていた大学生の男性と親しくなり、何故か近くの店まで買い物に行く事になり、婆ちゃんに許可を貰い、着物姿のまま、弟と三人で、山道を下って駄菓子を買って貰ったのですが、その後の記憶が消えてしまい、何も思い出せないのです。

しかし、この時の大学生のお兄さんの優しい微笑みだけは、今でも忘れて居ないのです。

その後、この記憶が曖昧だった私は、婆ちゃんのこの温泉で覚えている部屋の様子や温泉の事、駄菓子を買ってくれた大学生の事など、覚えている事を全て話したら、私の記憶が正確だった事に、婆ちゃんの方が驚いていました。

おでき

小学一年生の頃だと思います。

おしりと足の境目あたりに、おできが何回も出来る時期があり、膿んでぶよぶよになるまで待ってから、その後は大人達数人に押さえつけられ、おできに指で圧力を掛けると、一気に黄土色の膿が流れ出るので、テッシュでふき取りながら、最後は白い根っこのような物が出るまで、絞り出せば終わりなのですが、とにかく痛いのです。

肉体を持つと、病気や怪我などで、痛い目に合うので大変ですが、このおできは不思議な事に、数回出来ただけで、それ以降、おできは全く出来なかったので、良かったですよね。

めでたし、めでたし。

犬小屋

今回は小学一年の頃に起きた出来事「犬小屋」の話です。

私が生まれた家では、婆ちゃんが動物好きで、犬と猫を交互に飼っていました。その当時の犬は外で飼われ、猫は放し飼いでした。

この年の冬は雪が少なかったのですが、とても寒くて隙間だらけの我が家では、囲炉裏と豆炭あんかだけが頼りでした。この豆炭あんかで何度も低温やけどをし、両足に大きなやけどの跡が数か所、今でもでかでかと残るほど、酷いやけどをしてしまいました。

ある寒い夜に、外にあるトイレでおしっこをしてから寝るのですが、玄関の脇の犬小屋には、飼い犬のポチが寒さの為に私の姿を見て、ワンワンと吠え寒そうにブルブル震えていました。私は(寒いんだろうな)と毛布も何もない犬小屋を見て(あ、この犬小屋も隙間だらけで、吹きっさらしだから、寒くて眠れないだろうな。可哀想だな)と思い、母親に「毛布無いの?」何に使うんだと聞かれたので「犬が寒いから」と答えると、母親は「犬は毛皮を着ているから寒くないんだ、畜生だから寒さが分からないんだ」と語気を強めて言ったのです。

「それなら家の中の土間に入れれば?」と聞くと「獣くさいから絶対に家には入れない」と怒鳴られてしまったのです。

私はそうなのかな?と思いましたが、頭の中で母屋と納屋に要らない毛布が無いのか記憶を辿り探したのですが、見当たらなかったので、母親の「動物は毛皮を着ているから、畜生だから寒くない」の言葉を信じ、それ以降、犬の寒さを気にする事は無くなってしまいました。今考えれば犬だって猫だって生きているし、神経があるのだから、あの犬は寒さで眠れない夜を、春になるまで我慢していたのかと思うと、あんな馬鹿な母親の言葉を信じて、助けなかった自分に腹立たしいし、自分の思考の弱さに、今でも後悔しているのです。思い出す度に、この時の犬に懺悔を繰り返す人生になってしまいました。これって虐待だと思いませんか?

人間の世界ではたくさんの動物が虐待をされていますよね。例えば、牛舎に閉じ込められ、首だけしか動かせない牛とか、犬は狭い所が好きだから、飼い主が出掛ける時はゲージに入れて置く方が良いとか、よく考えてみれば、どんなに狭い所が好きでも、自由に出入りが出来なければ、狭いゲージに閉じ込められたら、監獄ですよね。

自分で何に生まれ変わるのか、自分では決められないのに、生まれ変わった時、牛だったら、猫だったら、豚だったら、犬だったら、鳥だったらと考えたら、人間ほど怖い存在は無いと思いませんか?

俺の体は

今回は「なんで俺の体はこんなに小さいんだ」と思った時の話です。

私の父親は虐待やDVを平気でする人であり、酒乱で暴れ回る人でした。

酒を飲めば目が座り、過去の事を思い出しては、自分の気に入らない事があれば、ネチネチと愚痴を言い、徐々にテンションが上がり、怒鳴りつけ、物を投げたり蹴散らしたりして暴れる人でした。

小学1年の私が聞いても(なんでそんな事で怒るの?暴れるの?)と、驚く内容で激怒するのです。今考えれば、我儘な独裁者と同じ状態で、自分の思う通りにならなければ、気に入らない事があれば、酒を飲んで暴れる人でした。

父親の被害者は、自分より年下の妹や母親、義理の弟や我が子など、常に自分より弱い相手に、チンピラと同じ様に、自分を正当化し、お前が悪いと一方的に責め、口答えや反論を言えば、逆らえば逆上して大暴れするので、逃げ惑うか黙って下を向くか、父親が納得するまで謝罪するしか方法が無いのです。

私は自分を正当化し、周囲の人を悪人かのように責め立て、攻撃している父親が許せなくて(この父親をやっつけてやりたい。反論して懲らしめてやりたい。戦いたい。)と思っても、小学1年の私の体は小さ過ぎて、腕力では戦えないし、子供の反論など暴力で押しつぶされてしまうのです。

それでも悔しくて、悔しくて、自分の手足や体をバンバン叩きながら「なんで俺の体はこんなに小さいんだ」「早く大きくなれ、早く大きくなってくれ」と、泣き叫ぶ事しか出来なかったのです。

人間の世界は常に弱い者が虐げられ、納得出来ない理由でも理不尽な理由でも、強い者が言えば、逆らえず、黙るしか、耐えるしか、従うしか方法は無いのかと絶望してしまったのです。

コールタール(道路工事)

今回は道路の舗装に使う、コールタールの話です。

私が小学校に通い始めた頃までは、舗装道路は全く無く、砂利道がほとんどでした。通学路も拡張工事と舗装工事が始まったので、観察が好きな私は、道路工事の手順ややり方を見ていたので、かなり覚えてしまいました。

測量、重機で掘削、側溝を作ってから砂利を敷き詰め、約1年間放置してから舗装工事に入るのですが、何故、1年間も放置してから舗装工事をするのでしょうか。理由が分からなかったので、工事を知っている人に聞いたら、このまま舗装道路にしてしまうと、地盤の弱い所や隙間がある所は、陥没してしまうので、雨や車で踏み固めてから舗装工事をするとの事でした。理由を聞けば納得が出来ますよね。

しかし、砂利道のまま放置されると、砂埃が舞い上がり、目に入ったり洗濯物を汚したりしてしまうので、風が強い日は特に歩くのは大変でした。

春が終わる頃だったと思います。集団で下校中、いきなり私達の靴やズボンに真っ黒なコールタールの液体が点々と飛んで来たのです。このコールタールは砂利の上に散布し、その上にアスファルトを敷いて舗装道路になるのですが、コールタールを散布している爺さんが、私達にニヤニヤしながら「ほれ」「ほれ」と笑いながら、コールタールを撒き散らかしていたのです。一緒に作業をしていた大人達は見ぬふりして黙って作業をするだけでした。

私達は驚いて逃げるように帰って来て、祖父にこの事を話したのですが、祖父は呆れた表情で黙ってしまいました。

世の中には本当に迷惑な人、危険な人っていますよね。

この世は自分を中心に回っている

今回は「この世は自分を中心に回っている」と思っていた時の話です。

この記憶は、小学1年か2年の頃だったのか、幼稚園の頃だったのか、はっきり覚えていませんが、多分、小学1年の頃だったような気がします。

台風が去って風が穏やかになり、天気も回復してきたので、遊びに行こうと、家の前の砂利道を歩き出した時です。我が家は高台にあるので、遊びに行くにはこの砂利道を下るのですが、この時は大雨で砂利が大量に流されてしまい、でこぼこになっていたのです。台風の影響は凄いなと、立ち止まって周囲を観察し、空を見上げて眺めていました。

台風が過ぎ去っても上空では、いまだに強い風が吹き荒れて、雲が次々と凄い速さで流れていくのです。その雲の動きを見て「あの雲は地球を中心に、グルグルと回っているんだろうな・・・」。「あ、そうか、だからあの雲も、この青空も、地球も、この世も、俺を中心に回っているのか」と、自分を支点として流れていく雲を眺め、自分が全ての中心だと錯覚してしまったのです。

次の瞬間「あれ?」。「おかしい」。と、次々と疑問が出てきたのです。

全て自分が中心でこの世が、この地球が動いているのなら、何故、祖父の人生の全てを知らないの?何故、祖母の人生を知らないの?何故、大昔の歴史を全部知らないの?それに、自分の為に地球があるのなら、自分が死んだらこの地球は無くなるの?そんな事は無いよね。自分が死んでも次々と世継ぎの子供は生まれてくるしね。そこまでくれば気が付きますよね。

私はホッとしたかのように肩の力が抜け「なぁーんだ。この世は自分を中心に回っていないし、その他大勢の一人でしかないのか」。と分かったら、今までの自分の傲慢さに、愚かさに、笑いが込み上げてきて、ひとりで笑ってしまいました。

しかし、何故この世は自分の為にあるとか、自分を中心に動いているとか、勘違いしていたのだろうか。原因は何だったのかと考えていると、「あ!わかった。」とひらめいたのです。

みなさんは気が付きましたか?

そうなのです。私は農家の長男として後継ぎとして生まれたし、初孫だったので、親や祖父母達に相当甘やかされて育ったのだろう。何でも言う事を聞いてくれ、私の思い通りにしてくれたから、自分が王様だと勘違いしたから、全てこの世は自分を中心に回っていると勘違いしたのではないかと、自分を分析していたのです。

弟を相当甘やかしている両親を見て、私も弟が生まれる前は、相当甘やかされて育ったのだろうと確信したのです。

自分の言う事を何でも聞いてくれる人が居れば、自分の思う通りにやってくれる人が居れば、それが当たり前になってしまうので、自分は王様だと錯覚し、自分の言う事を聞かなければ、思う通りにならなければ、大暴れをする暴君に、危険人物になってしまいますよね。

席順

今回は「席順」について、話したいと思います。

私が小学生になった頃から、父親は冠婚葬祭の座る位置、席順で常に不平不満ばかり言っていました。

「うちの方が本家なのに、何で分家の末席に座るんだ?」とか「うちの方が、格式が高いのに、座る順番が違うだろう」とか文句と罵倒を繰り返し、席順を決めた親戚の家に行っては、怒鳴り込んでいました。

私が住んでいる農村では、冠婚葬祭は自宅で行っていたので、具沢山の煮物や天ぷら、きんぴらごぼうやポテトサラダなど、部落の女性達が集まり、朝から作っていました。一人用の御膳に作った料理と刺身を乗せ、座布団が並んだ席に配膳し、酒を用意して準備をするのです。

この、席順で文句を言っている父親や親戚のおじさんの話を聞いていると、馬鹿らしくて呆れてしまうほどでした。「どっちが格上」とか「俺の方が偉い」とか、言い出したら何を言っても譲らないし、全く聞く耳を持たないのです。

席順を決めた人も「こんなに文句を言われるなら、結婚式をやめるか?」とか「どうすれば良いんだ」と頭を抱えてしまう人も居ましたし、文句を言っている人達の言う通りの席順にし、何とか収めた人も居ましたが、やっと収まったかと思えば、今度は、別な人が怒ってもめてしまう事もあったのです。

私は父親に向かって(何が席順だ。お前は何も学んでいない馬鹿なのだから、レベルが低いのだから、人間が座る座敷ではなく、土間にゴザでも敷いて座っとれ)と心の中でつぶやいていました。

数年後、席順でもめる人が多いので、立食パーティーに切り替えた人も多いし、そのほかにも様々な理由があったので、全国にパーティー会場がいっきに増え、自宅で冠婚葬祭をする人は、居なくなってしまったのです。馬鹿な人ほど、知能が低い人ほど、昆虫や動物と同じで、どっちが上か下か、どっちが偉いかどうか、自分のメンツを守る為に争っているのです。動物や昆虫と同じ思考レベルだから、低能な争いが出来る人達だと、思いませんか?

子猫

今回は「子猫」の話です。

婆ちゃんは動物が大好きで、飼い犬が死ねば次は猫を飼うので、犬と猫を常に交互に飼っていました。私が何歳の頃だろうか、はっきりとした年齢は覚えていないのですが、多分小学一年の頃だと思います。

ある日、家で飼っていた猫が、段ボールの中で出産をしたのです。私は初めて見る出産に、驚きと興奮で生まれて来る子猫達に、凄いなぁ。何匹も生まれるんだなと観察をしていたのです。次の日、学校から帰って来ると子猫達がいません。私は(え?子猫達は?)と思い、母親にたずねたら全ての子猫達は川に流してしまったとの事でした。「え?川?そんな大きな川ってどこ?」とたずねると「すぐそこの川だよ」(え?あんな小さな川?)その川は幅が1mにも満たない小さな用水路でした。

私は泣きながら「何で川に流したの?死んでしまうよ」と言うと母親は「あんなに何匹も飼えないよ。だから捨てたんだから。」私は慌てて靴を履こうとしたら「やめなさい。拾って来ても飼わないよ。それにもう死んでいるよ」と言われ、私はその場で力を失い、座り込んでしまいました。

それから何日かが過ぎた頃でした。学校の帰り道を友達と歩いていると、小さな声で子猫が鳴いているのに気が付きました。私は慌てて声のする方を見ると、用水路の段差に落ちた数匹の子猫達がぐったりとして全く動かなくなっていたのですが、2匹だけ川から必死に這い上がろうと手足を動かしていたのです。私はとっさに助けに行こうとすると、友達が私の腕を掴んで「やめろ!助けたって飼えないよ。それに、ここで助けても、また捨てられるから無駄だよ」と言われ、この友達も辛い思いをしたんだなと思い、諦めて帰宅したのでした。

私は歩きながら(猫って何て馬鹿なんだ。あんなにたくさん子供を産むから、捨てられて殺されてしまう。我が子が可哀想だと思わないのだろうか。と考えた時、ハッと気が付いたのです。

人間の中にも、この猫達と同じように、貧しいのに、生活が出来ないのに、平気で子供を産む人も居るし、自分で子供を産んでいるのに、子育てをしない人も居るよね。これって猫達と、動物達と全く同じ思考、同じ行動だよね。生まれて来る子供の事なんか、全く考えていないから、生まれてきた子供の苦しみを全く考えていないから、平気でたくさんの子供が産めるんだよね。

人間でも動物と同じ考え、同じ行動しか出来ない人が居るのに、こんな小さい脳しか持っていない猫に、子供がどうなるのか考えて、産んでくれと願っても無理な話だなと諦めたのでした。

この時から、子沢山の人を見ると、動物のように何も考えずに、自分の性欲を満たす為だけに、生きている人と考えるようになったので、嫌悪感を持つようになったし、気持ちが悪いので、近寄らない、関わらないと思ってしまうのは、私だけでしょうか。

田舎の香水

今回は「田舎の香水」について、話してみたいと思います。

私の幼い頃は、化学肥料が徐々に作られていたのですが、一般の農家では糞尿を貯めて肥料にしていました。

春になるとどこの家でも畑に糞尿の肥料を撒くので「臭いよね」と言うと「これが田舎の香水って言うんだよ」と言われ、なるほどなと思いました。

沖縄でも野菜作りの肥料は人糞で作られている事を知った米軍は、野菜をアメリカから大金を掛けて輸送していたと、後に高校の先生に聞いた時は「確かにね。肥料が無いんだから、自分の人糞で作られた野菜なら仕方がないかと、諦めるけど、外国の人の人糞で育てられた野菜は、嫌だよね」と、納得したのでした。

それから数年で、化学肥料が次々と作られ、人糞を撒く人は居なくなったのですが、必要が全く無い肥料や農薬でも、農地の大きさで購入する数を決められ、病気になっていない米や野菜にも、指定された量を使い切らないと、苦労して作った米も野菜も買って貰えないし、農協でしか農家は売買出来ないので、農地が少ない人ほど、作っても作っても豊かになれない貧乏な農家が、数えきれないほど居たのです。

ある年など、清流にしか生息していないイワナやヤマメなど、大量に川に浮かんで死んでいる様子を見た時は、これほど強い農薬を撒いて、環境破壊にならないの?人体に影響は無いの?と、幼い時に思ったのですが、次の年からはそこまで強い農薬は使用されなくなりましたね。

子供の頃から、兼業農家は牛馬のように休みなく、朝早くから夜遅くまで働いても、肥料代と農薬代、農機具代の費用に赤字になる農家が多いので、幼い私は、農家の敵は、農協と修理代ばかり掛かる農機具のメーカーだと思っていたのですが、最近では個人で農家をするより、会社として経営すれば、農家は儲かると実験データもあるのに、国家公務員が新聞社を使って「赤字になる」と嘘を伝え、会社にはやらせないように許可を出さないと聞いた事があるので、国家公務員も農家の敵だと思ってしまうのです。

これだけ天災が増え続けているのに、農業を発展させない国家ってどうなんでしょうか。世界中で農作物が取れなければ、自国の大事な食料を輸出をしてくれる国など無いのに、どうやって国民を飢えさせないように出来るのでしょうか。怖い未来しか予想が出来ないのは、私だけでしょうか。

ことわざ

今回は「ことわざ」について、驚いた時の話です。

みなさんも幼い時から、いろいろなことわざを聞いて育ったと思います。私も同様で爺ちゃんや婆ちゃん、母親などからたくさんのことわざや意味を教わって育ちました。

小学1年の頃だったでしょうか。婆ちゃんから「黒猫が目の前を横切ると不幸になるんだよ」と真面目な顔をして言ったので私は、なるほど、そうなんだと思っていると目の前を真っ黒な猫が横切ったのです。私は「あっ!黒猫が横切った」と驚いたのですが、その猫は家で飼っている黒猫でした。

私は黒猫を見つめながら、猫だって自分が黒猫に生まれて来た事も、自分が横切ったら不幸になる事も知らないよね。それに、黒猫を飼っている家は不幸だらけになってしまうのかと考えたら、嘘だってわかりますよね。

しかし、婆ちゃんは自分で黒猫を飼っているのに、このことわざが嘘だと気が付かないのでしょうか。私は「本当に黒猫が横切ると不幸になるの?」と確かめると「うんうん。だから気を付けろよ」と、黒猫を撫でながら真顔で言ったのです。婆ちゃんはこんな単純な矛盾にも気が付かないのかと思ったのですが、婆ちゃんには言いませんでした。

私は心の中で「人間はこんな単純な嘘やデマでも信じてしまうのか」と驚き、昔の人が語った事や大人達が言っている事を、鵜呑みにしてしまう事は危険だと考え、何でも自分で正しいかどうかを検証してから、自分の中に取り入れようと、この日、誓ったのです。

その後、検証の数が増えるたびに、この世には嘘とデマが氾濫している事に驚き、何故、こんな単純な嘘やデマにも、簡単に騙されてしまうのかと、人間の思考能力の弱さに、驚いたのです。人それぞれが、自分で思考を鍛えなければ、発達させなければ、何千年たっても嘘やデマに踊らされる人が減らないし、嘘やデマを作る人が多いので、真実が分からずに、右往左往して苦しんで行くのだろうなと思ってしまったのです。昔から烏合の衆と言われるひとりになってしまいますよね。

人間観察の始まり

今回は「人間観察の始まり」について、話したいと思います。

幼い頃から私の父親はいきなり殴ってから、大声で怒鳴り「こんな事も分からないのか」「こんな常識も知らないのか」「こんな当たり前の事も出来ないのか」「この馬鹿野郎」「この薄馬鹿」「このがんもどき野郎」とか意味の分からない事を言って罵倒するのです。

自分の思う通りにならなければ、言う事を聞かなければ、幼児の駄々っ子のように、大声で怒鳴る、殴る、物を投げつけるなど日常茶飯事でした。こんな父親から自分の身を守るにはどうすれば良いのかと考えた時に、まず、父親の怒る基準を知らなければ対応が出来ないと考えたのです。

どこまでが許せて、どこから許せなくなるのか、その基準を知らなければ対策は出来ないと考えた私は父親に気付かれないように上目遣いで、父親を凝視し観察を始めたのです。

すると私の視線に気が付いた父親は「この野郎!何見てんだよ!何睨んでいるんだよ!」と凄い剣幕で怒ったので慌てて目を伏せ、殴られる覚悟をしましたが、この時は殴られずに終わりました。私はうつむきながらこたつ布団を眺め(えー・・これじゃあ観察が出来ないよ・・・父親の基準が探せないよ・・・)とがっかりしていると、周囲の人達の足音や動く音で、様々な情報が入って来たのです。

例えば、この足音は普段通りの母親の歩く音だから、落ち着いて歩いているのかな?と思ったので、一瞬だけ顔を上げ、見て確認すると、予想通りの母親がいたのです。(そうか・・そうだよね。目で見なくても歩く足音や動作のスピード、話し方のトーンなどで、その人の感情やどう思っているのかもある程度、予測が出来ると思ったのです。

これは使える、見なくても分かると、うつむきながら笑いがこみあげてきたのですが、周囲にばれないようにそっと横になってテレビを観るふりをして、周囲の家族が出す音に集中し「この音を出しているのは、あの人で、感情は」と予測しては目で確認し、予想が全て当たっている事に満足したのでした。

これ以降、人の表情だけではなく、言葉使い、態度、行動の仕方などで、その人の考え方や感情など、様々なデータが次々と集まってくるので、分析が出来るようになり、対策や対応の仕方も、考えられるようになっていくので、怒られる回数が劇的に減ったのでした。

地獄の給食

今回は「地獄の給食」の話です。

私が入学した1967年の頃の給食は、今とは全く違うと言っていいほど別な食べ物でした。小学二年までは牛乳ではなく、大きなやかんに入った脱脂粉乳を、コップに注がれて飲んでいました。初めて飲んだ脱脂粉乳は「美味い」と思ったのですが、同級生からは「不味い」「なんだこれは」と不評の声が聞こえてきました。先生は「残しては駄目ですよ。全部食べて下さいね」と言ったので、渋々押し込みながら飲んでいました。

私だけ何故美味いと感じたのだろうかと原因を探しましたが、答えは簡単ですよね。

その後、脱脂粉乳は小学二年で終わり、180ml入りの瓶牛乳に変わりましたが、水が8割も入っているほど、薄い、薄い牛乳でした。

学校の給食は、中学を卒業するまで、牛乳とコッペパン、それにおかずが一品の給食でしたが、小学生の時のコッペパンは、現代のようにフワフワでは無く、少しでも時間が過ぎると、何日も放置したような固くてパサパサしたパンになってしまうので、学校を休んだ日に届けられたパンは、不味くて食べきるのがやっとでした。

それに給食のおばさんが近所の婆ちゃんやおばさんが作っていたからでしょうか。塩辛くて食べられないヒジキだらけのおかずとか、なんのメニューか全く分からないおかずとか、嘔吐物と見た目が同じようなおかずなど、一口食べたら吐きそうなほどの味に、悲鳴をあげる生徒が隣の教室からも聞こえたほどでした。それでも残すなとの指示なので、必死で我慢して、涙目で飲み込んだ人が多かったのではないでしょうか。先生に給食は栄養士の先生が管理していると聞いて、驚いたのと同時に、今後の給食に期待が出来ないと、がっかりと落胆したのでした。

小学二年生の時にナポリタンだと言われて出されたスパゲッティは、吐くほどまずかったので、一生食べないぞと思ったのですが、小学五年生の時に、親戚のおばさんが「このナポリタンは旨いよ」と勧められたのですが、何度断っても作って出されたので、観念して食べたのですが、その旨さに驚き「給食で出されたナポリタンはなんだったんだ?味が全く違うではないか」と、呆然としてしまったのでした。

そんな給食も小学5年生の頃から徐々に改善されて来たので、安心して食べられるようになったし、地獄の給食は数えるくらいしか出て来なくなりました。

しかし、カレーや砂糖パン、きな粉パンが出れば歓声が上がるほど大喜びで、至福の給食の時間になったのでした。

お菓子が食べたい

今回は「お菓子が食べたい」と見つめてしまった時の話です。

小学校の1年の頃だと思います。

家にお客さんがひとり訪ねて来て、みんなでこたつに入り、父親がお客と対話をしていました。私とひとつ年上のおばさんは並んで座っていたのですが、目の前のテーブルの上には、今まで見た事が無いお菓子が、ひとつひとつビニール袋に入れられ、テーブルのど真ん中に出されたのでした。

初めて見るそのお菓子は、今思い出せばクッキーでしたが、柔らかそうで旨そうなクッキーに私とおばさんは釘付けになり、目が離せなくなってしまったのです。

この当時の私の家では、一斗缶で買った割れせんべいが年に一回か二回買う程度でした。しかし、このせんべいはお客さん専用なので、数か月は食べれませんでした。数か月過ぎると徐々にせんべいはしけってくるので、お客さんには出せなくなるので、やっと私達が食べてもいいよと許可が下りるのです。

そのほかのお菓子と言えば、おばあちゃん達が大事に食べていた黒糖や甘納豆、それに歯が解けそうなくらい甘い羊羹でした。この当時は、まだ甘い物は貴重で、甘ければ甘いほど良いとされていたのですが、私はこの歯が痛くなるほど甘い羊羹が苦手で、ほとんど食べれませんでした。黒糖や甘納豆はおばあちゃん達の宝物なので滅多に食べられないし、年に数回、手のひらに少しだけ貰って食べる程度でした。

ですから、初めて見たクッキーに、それもひとつひとつ大事に袋に入ったクッキーなど見た事が無かったので、私とおばさんは釘付けになり、見つめてしまいました。

お客さんが帰った時でした。突然父親が「何だ、お前ら、その物欲しそうな顔は」と怒鳴り「お前らは乞食か」「いつも食わせて貰っていないようなかおをしやがって」と怒鳴りまくっているのです。

今回はおばさんも一緒だったので、殴られる事は無かったのですが、私一人なら殴られていたと思います。私は心の中で「いつも旨い物を食べているのはお前と弟だけだろう。俺達に旨い物など食わせていないのに、そんなに怒鳴るなら食わせてみろよ」と心の中でつぶやいていました。

不満だらけの私は、その後の記憶が無く、クッキーを食べたかどうかは思い出せませんでした。

靴擦れ

今回は「靴擦れ」の話です。

現代では「靴擦れ」をする運動靴は、ほとんど無くなったと思いますが、私が小学校に登校する時は、片道が4kmも歩くので、ほとんどの人は靴擦れで足首が真っ赤にただれたり、血だらけになったりしてしまうので、靴を買って貰ったら靴にロウやせっけんを塗ったりして、少しでも靴擦れを防ごうとしましたが、靴の加工技術の問題なので、それでもなかなか防げませんでした。

しかし、数年後には新品の靴でも全く靴擦れをしなくなったので、安心して履けるようになりました。

この頃から、様々な機械や車、おもちゃなどが身の回りに増え、一気に技術がどんどん進化している時代に突入したと、幼い私でも感じる事が出来たのです。しかし、食事だけはいまだに貧しく、しょっぱい、しょっぱい漬物や梅干しだけのおかずの日が、まだまだ続くのです。

しかし、もっと年上の人には「これだけ食える時代に生まれてよかったな」と言われるほど、過去の日本は貧しい時代が続いていた事を、身をもって知ったのでした。

まだまだ、かまどが主役だったしね。

タイヤ跳び

今回は、小学校に入学した頃の出来事「タイヤ跳び」の話です。

私が通う小学校の校庭の端には、校庭の山砂に半分埋まった車のタイヤが10本くらい等間隔で一列に並び、それを連続で跳び箱のようにピョンピョンと跳び越えて遊んでいました。多くの生徒や同級生の女の子達は気持ちよく跳んでいるのですが、私は跳び箱が得意なのにタイヤ跳びは怖くて全く跳べませんでした。

何故、こんなにタイヤ跳びが怖いのか、と、原因を分析してみました。

(跳び箱の周りには安全マットがあるので、失敗して転んでも怪我が少ない。タイヤ跳びの周りは山砂なので失敗して転倒すれば、顔や手足に擦り傷が出来る。怖い理由のひとつは怪我が怖いからだ)

(ふたつ目の理由は、跳び箱とタイヤ跳びの違いは、跳ぶ時の足の開き方(角度)が違う。タイヤ跳びはタイヤの幅より大きく足を広げないと飛べないので、開き方が足りないと足がタイヤに引っかかってしまい、顔面から落ちて怪我をするので怖い)

ん?結局、怪我が怖いって事だよね。では、どうすればこの恐怖を克服出来るのか?そこでまた分析です。

(跳び箱は何故怖くないの?・・それは何度も練習して跳べるようになったから、安全に飛べるようになったから、怪我をする恐怖が無いし、跳べるから、出来るから楽しいと感じる)

タイヤ跳びは?出来ないから怖い。跳び箱のように一度出来てしまえば、タイヤ跳びは克服出来る。だって同級生の女の子達が、次々と楽しそうに跳んでいるのに・・俺にだって出来るはずだ、出来ないはずが無いと考えたのです。

では、どうすれば跳べる?どうすれば出来るようになる?もう一度考えてみよう。

(彼女達は恐怖心を持っている?いや、恐怖心が無いから跳べる。跳べるから楽しい。もし仮に、俺の体を彼女達の頭脳が使ったらどうなるだろうか?恐怖心が無いし体の使い方を知っているので、俺の体を使っても簡単に跳べるよね。)

よし、では、俺の体は今から彼女達の頭脳が使う。俺の頭脳と彼女達の頭脳を入れ替えてみよう、俺は彼女達、俺の頭脳は彼女達の頭脳になった、よし!必ず跳べる、出来る、足を大きく開いて跳べば出来ると自分に言い聞かせ、タイヤの上に両手を置き、思いっきり蹴り上げ、足を大きく開いて跳び越える。次の瞬間「出来た。跳べた」と感激し、次のタイヤも同じ要領で跳んでみた。跳べる。跳べるのです。一回跳べてしまえば後はこっちのものですよね。今まで跳べなかったのが嘘のように跳べるので、嬉しくて、ピョンピョンと次々とタイヤを跳んでいました。

これが生まれて初めて使った「思い込みの効果」なのですが、これ以降、驚くほど多くの「思い込みの効果、マインドコントロール」を使う事になるのです。

自分で自分の脳を思い込みで洗脳する事を、マインドコントロールと言い、他の人の考え方ややり方を、強制的に押し付けてやらせる事が、洗脳と言うのだそうです。

出来ない、出来るはずが無い、無理だ、駄目だとマイナス思考で自分の脳を洗脳するのか、俺は出来る、必ず出来るはずだ。絶対に出来る、他の人が出来るのに、自分に出来ない理由は無いと、プラス思考で自分の脳を洗脳するのかによって、人生は大きく変わってしまいますよね。

私は幼い時から、絶対に出来る。では、方法は?と考えるので、出来る事が増えていくのです。

しかし、この思込みの効果、洗脳は、使い方を間違えれば、人を育てる事も、駄目にする事も可能になってしまうので、使い方に注意が必要ですよね。

父親について

多分小学一年の頃だったと思います。先生が教室に入ってくると、原稿用紙を配りながら「今日は自分の父親に付いて、どう思っているのか書いて下さい」と言ったのです。私は(え?・・・何で?・・・)と驚き絶句してしまったのです。

私は先生を睨みつけながら脳内で(何故、こんな題名で作文を書かせるの?世の中には虐待されている子供がたくさんいるのに・・本当の親の姿を、自分の本当の気持ちを書いたら・・怒られるし・・殴られるし・・下手をすれば殺されるのに・・何故、大人はそんな事も配慮しないで作文を書けって言えるの?何故、教育者の先生がこんな事も理解しないで、作文を書かせるの?)と怒りに震え(虐待されている子供に嘘を書けと強要するの?)・・と諦めて書く事にしました。

私の葛藤と思考は続きます。返してもらった作文は、絶対に見せられないので、必ず隠さなくては・・・しかし、私の性格では隠した事すらも忘れてしまうので、必ず誰かに見つかるだろうな・・読まれてしまったら絶対危険だよね・・それならいっそ破り捨ててしまう?・・いや・・誰かに聞いて親が知ってしまう事もあるな・・破いてしまうのは危険だ・・・しかし、本当の気持ちは絶対に書いては駄目だし・・・

ん?・・そうだ!見られてもいいように嘘を書けば怒られないし、殴られない。それに隠した作文がばれても問題が無いと考え、嘘の作文を書く事に・・(ん?・・待てよ・・ちょっと細工をするか・・前半は嫌いなところをちょっとだけ入れておけば、少しは釘をさせるかも知れないし・・最後はほめまくれば怒られないだろうし、喜ぶだろうなと考え、作文を作りました。

数日が過ぎると作文は返却され、私は嘘の作文なので見せたくないので当然、予定していた通りに隠しました。

その後は私の予想通り隠した事を忘れてしまい、数年が立ちました。

小学の4年か5年生の頃だと思います。家に帰ると私が隠した作文を、おばさん達が見つけ大喜びでした。おばさん達は私の作文を嬉々として読み上げ、後半の父親を褒める文章で私は「やめろよ」と照れながら、作文を取り返そうとすればするほど、おばさん達ははやし立て大盛り上がりしたのです。これも、私が照れれば照れるほど真実味が増すし、私は嘘の作文を読まれたら恥ずかしいので、演技をしないで自然に照れる事が出来るから、一石二鳥だと作文を書く時に予想して書いたのです。

ちょうどこの日は父親もいたので、時々横目でチェックしていたら、自分が褒められたので前半の私が嫌いな部分は無かったかのように、笑顔で私達を眺めていました。

私は心の中で(よし!全て予想通り!完璧だ~~!これで殴られないし怒られない)とガッツポーズをしていました。こんなに気持ちが良いほど予想した通りになるなんて、と自分でも驚いたので、鮮明な記憶として残りました。

ま、今考えてみれば、単純で簡単な予測だったので、はずれる方が難しいのですが、小学生の時の出来事なので温かい目でお願いします。

ちなみにこのガッツポーズですが私の記憶では1971年放映の野球漫画の実写版「ガッツジュン」の頃から私達は親指を立てて「ガッツジュン」と言いながらガッツポーズをしていました。世の中ではガッツポーズはガッツ石松さんが最初と言われていますが、私の記憶では違います。

大人になって、この時の事を思い出し、虐待をそのまま書いていれば、学校側が対処し、保護されたかもと考えてみたのですが、確率的に考えれば、そのまま事実を書いた方が危険だと、今も思っているので、この時の出来事の方が、最善策だと今でも思っているのです。

虐待の危険を知らない大人に、自分の身は任せられませんよね。

初めての算数の授業

今回は「初めての算数の授業」のお話です。

小学校に入り初めての算数の授業は衝撃的でした。

算数に興味があった私は、どんな勉強をするのかと期待に胸を膨らませ、授業が始まるのを待っていました。そこへ女性の先生が大きな木で出来た三角定規を2つ手に抱え、教壇に上がり元気よく大声で自己紹介をしてから授業が始まりました。

(いよいよ、算数の初めての授業が始まる。どんな事をやるのかな)とワクワクしながら先生を見ていると、先生は勢いよく、ひとつの三角定規を黒板にあて、チョークで横に一直線を書いて私達に「みなさんもノートに書いてくださいね」、「書き終わりましたか?」、「書き終わったら、今度はこの線をもっと長く伸ばしてくださいね」と言うと生徒達は「はい」と言って線を伸ばす作業をしていました。

私は、え?そんな事は出来ないよ。不可能だよと、固まってしまったのです。何故、私が出来ない、不可能だと思ったのか、それはふたつの理由があったのです。

ひとつは鉛筆で書いた一直線に、後から延長線を継ぎ足しても、全く同じ太さ、同じ筆圧、同じ濃さ、同じ鉛筆の粉の散らばり方は出来ないので、延長線は書けないし、書いたとしても拡大してみれば、線と線のつなぎ目が分かってしまうので、延長線を鉛筆で書く事は不可能だと思ったのです。

ふたつ目は、適当に書いた一直線に、一度手を放してしまった三角定規で、どうやって全く同じ角度で延長線が書けるのだろうか?固定された機械では可能かも知れませんが、機械も使わず、固定もされていない人間の手だけで書く事は不可能だと思ったのです。

例えば、今書いたこの一直線を月まで伸ばすとします。後から継ぎ足した延長線も月まで伸ばしたとします。この直線と延長線は同じ角度、同じ線上で書けるのでしょうか?ふたつの直線が少しでも角度が違えば、同じ線上で書かれなければ、延長線では無くなり、平行線、または、交差する線が二本あるだけになってしまいますよね。ですから、固定されていない人間の手で延長線を書く事は不可能だと思ったのです。

しばらく生徒達の様子を見ていた先生が「書けましたか?」と言うと、ほとんどの人が「はい」と答えたので、私はさらに驚いてしまったのです。私の思考の中では不可能だと思った事が、ほとんどの人が可能だと答えたのです。どうすれば可能になるのか私には全く分からないので、私の思考のレベルが低過ぎるのかと驚愕したのです。

すると、先生は、黒板に書かれた直線の上に定規を重ね、チョークで線を継ぎ足して「みなさんは出来ましたか?」と言ったのです。私はさらに驚き(え?それは延長線では無いよ。ふたつの別々な線だよ)と、心の中でつぶやいたのですが、他の生徒達は元気よく「はい」と答えていました。

私は初めての算数の授業に期待していたのですが、この程度のレベルの算数を習うのかと、がっかりしてしまったのです。

話せない、しゃべれない

今回は「話せない、しゃべれない」について、話したいと思います。

幼稚園までは普通に会話が出来たのですが、小学校に入る前の春休みだけで、一緒に遊んでいた隣近所の3歳年上の男の子の「どもり」が完全にうつってしまったのです。その男の子が何故「どもる」のか知りたくて、真似をしたのが始まりでした。その結果、順応性が早い私なので、あっという間に「どもり」を習得し、普通に使えるようになってしまっていたのです。

どもってしまった私をみて家族は「隣の家の人に悪いから、ふざけてどもるのはやめなさい」と何度も注意をされたのですが、意識して直そうとしても治らず、そのまま入学してしまったのです。

学校では話すたびに、どもる私は笑われてしまうので、話す事はやめてしまったのです。

同級生が話し掛けてくれても会話が出来ないので、無視をするか無言でやり過ごしていると、誰も声を掛けて来なくなり徐々に孤立し、遊ぶ人がいなくなってしまったのです。

これはまずい。このまま人と話さなければ孤立すると考えていると、突然、あっそうか。そうだよね。今の俺は誰とも話さない、交流しないという事は内向的な性格の子と一緒だよね。そこで私は考えました。内向的な子って好かれる?いや、話し掛けても返事をしなければ誰も相手にしなくなるよね。という事は、このまま話をしなければ、会話をしなければ、学生時代も社会人になっても誰も相手にしてくれないので、孤立してしまうよね。友達も結婚も出来ず、一生ひとりで生きていく?それは絶対に嫌だよね。それに、内向的な性格ではいじめられるし、自分の意見が言えなければ、言わなければどうなるのかと想像してみたら、どう考えても、楽しい人生にはならないよね。ではどうすれば良いのか、簡単に出来る練習方法は無いのかと考えたのです。

その当時考えた練習方法を紹介しますね

  1. 友達同士で話していたら、一番後ろにそっと並んで話を聞いてみる。
  2. 慣れて来たら、納得出来る話なら頷いてみる。
  3. 今度は勇気を出して「うんうん」と小さな声で頷いてみる
  4. 自分の意見があったら、頭の中でどう説明をすれば良いのか、考えてみる。
  5. チャンスがあったら、自分の意見を言ってみる。

この方法を実際にやってみたらあっと言う間に話せるようになっていたし、「どもり」も直っていました。

後にこの方法はかなり優れている事に気が付くのです。

ひとつは、自分の意見に賛同し、頷いてくれる人が居たら、相手や周りの人はどう思うのかを考えれば、答えは分かりますよね。同じ仲間であり、大事な友達として認めてくれますよね。ふたつ目は同じ仲間なら、友達なら駄目な自分の意見でも聞いてくれるようになるし、失敗を許し合える友が、見つかる事ですよね。

これで内向的な性格も改善出来るし、友達も作れるので孤独な人生にはなりませんよね。人付き合いが苦手な人や内向的な人は、自分の未来を考え、どうすれば良いのか、練習方法を探してみてはいかがでしょうか。

通学路

今回は「通学路」のお話です。

幼稚園を卒園し、新しいランドセルを背負って登校する日がやっと訪れ、待ちに待った小学校に入学出来たのですが、私の家から小学校までは片道4kmくらいあるので、子供の足では1時間半から2時間も掛かりました。この当時の道路はほとんど舗装されておらず、雨が降ると水溜まりがたくさん出来るし、歩くたびに泥が跳ね上がってズボンのふくらはぎの部分が泥だらけになってみんなで歩いていました。晴れた日でも砂利道なので子供の足で歩くのはとても大変でした。

ある日の事。私がひとつ年上のおばさんに「学校までの距離が長くて歩くのは大変だ」と言うと「何を言っているのよ。私達より遠い部落からも通っている人もいるし、女の子もいるのよ。男のあなたが愚痴を言ってどうするの?」と言われてしまいました。

私は(そうだよな。俺より遠い距離を女の子達も頑張って歩いているのに、それより短い距離の自分が弱音を吐いては駄目だよな)と納得し、愚痴は一切言わなくなりました。人間って不思議だと思いませんか?不満だと思ってしまうと愚痴ばかり言ってしまうけど、考え方を変えて、当然だとか、当たり前の事なんだと納得した瞬間から愚痴は出なくなるよね。

学校が終わり下校時間になると、気の合う人や近所の人達と一緒に帰るのですが、数日が過ぎたある日、下校中に同級生の男の子のお母さんが自転車の脇に立っていました。私を見つけると「うちの息子を見なかった?」と聞かれたので「もう少しで来ると思います」と答え、一緒に待っていると「あなた達は待たなくていいから先に帰って」と言われたので、友人と歩き出したのですが、それからしばらくすると、自転車の後ろの荷台に乗った同級生の男の子が通り過ぎて行ってしまったのです。

それから毎日のように、その子の母親は迎えに来て、時々おやつを買い与えていたので、後ろの荷台に座って食べながら、下校中の小学生の中をゆっくりと追い越して去って行くのです。学校では下校中の買い食いは禁止されていましたが、母親と一緒だから問題がないと、堂々と食べながら帰るのです。

ある夏の暑い日、いつものようにその男の子は、自転車の荷台に座ってアイスをほおばりながら私達を追い越して行く姿を見て、なんとも言えずに唖然として見送りましたが、前にはその男の子と同じ部落の女の子達が歩いていました。彼女達は後ろから来る自転車に気が付き、道路の脇によって道を譲り自転車が通り過ぎるのを待ちました。

女の子達は暑さに耐えながら、真っ赤な顔をして頑張っている様子でしたが、目の前をゆっくりと自転車の後ろに乗ってアイスを食べる男の子に気が付くと、慌てて目を伏せ、出来る限り見ないようにして歩き始めたのです。

私はこの光景を見た瞬間、とても悲しくなりました。私もどんなに食べたくても弟だけしか貰えないので、弟が食べている横でじっと我慢するしか方法がないので出来るだけ見ないようにしたり、違う事を考えたりして、気を紛らわせていました。私は彼女達の行動と自分がやっている行動が重なり合ってしまい、とても悲しく感じてしまったのです。

ほとんど毎日のように迎えに来ては、荷台でおやつを食べながら帰る光景は、次第に慣れてしまうのですが、初めてこの光景を見た時は、同じ人間なのに何故こんなに違うのだろうか?何故、同じ年齢なのにあの子だけが私達が食べられない物が食べられるのだろうか?何故、あの親子は周りの子供達がどんな気持ちで見送っているのかと考えないのだろうか?私は自分が親になったら絶対こんな親子にはなりたくないぞと強く思った出来事でした。

この親子は、気が付いた方も居ると思いますが、台風や大雨で橋と一緒に我が子が流されたら危険だからと言って、幼稚園に通わせなかった母親だったのです。