車酔い
私が幼児の頃から小学を卒業するまで、車酔いが酷く、エンジンがかかっていない停車している車に乗っても、車の匂いで気分が悪くなり、頭がくらくらして嘔吐していました。この頃の車は独特な匂いがあり、その匂いが苦手でした。
ある日、母親の実家に行こうとしたのですが、田舎の山奥なのでバスの時間と合わないので、その日は初めてのタクシーで向かう事になったのですが、タクシーに乗った瞬間、車の匂いでその場で嘔吐してしまったのです。
母親はタクシーの運転手に何度も詫びましたが、運転手は笑いながら「大丈夫ですよ」と言いながら私の嘔吐物を掃除してくれました。そのタクシーの運転手も、子供の頃は車酔いが酷かったけど、大人になったら治っていたと言っていたので、母親は「本当ですか?」などと会話をしていたのです。中学生の頃にやっと車の匂いは改善され、無くなり始めたので、これ以降、中学低学年の頃から、車酔いする事は無くなったのでした。
墓参り
お盆に母親の実家に帰省した時に「みんなで墓参りに行くぞ」と言われ、墓地に到着すると、手分けして墓石や土饅頭に線香や花束、料理をお供えし、手を合わせて拝んだ後に、お供え物をみんなで食べるのですが、嫌いな線香の煙にまみれた食べ物など、潔癖症に近い私は、食べられませんでした。
今でも線香の香りやお香が駄目だし、おはぎ?ぼた餅?は、今でも食べた事が無いし、食べる気も無いのです。
蛇足ですが、家の中や外を歩いている時に、葬式でも無いのに、葬式の時の独特な香り、線香の匂いと花の匂い、果物の匂いが混ざった香りが、漂う箇所があり、成仏していない霊が自分の存在を知らせている為にやっているのかな?とは思うのですが、私には全く分からないし、知りたくもないので、いつも無視、放置です。
それでも、何年かに一度は、この香りがするのです。
畑の鍬
幼児の頃、母親の実家に行った時の出来事です。
母親の弟が畑に仕事に行くので、私も一緒に付いて行く事になり、よちよち歩きなのですが、おじさんとふたりで雑談をしながら、ゆっくり歩いて山の中にある畑に行きました。
畑に到着すると、おじさんと言っても20歳くらいなのですが、歯の長い鍬で、リズミカルに畑の土を、ザクザクと差し込んでは、掘り起こし、畝を作っていたのです。
私はリズミカルに正確な機械のように動く、歯の長い鍬の動きに見惚れてしまい、観察が楽しくなってどんどん近付いてしまい、気が付いたら鍬の背の鉄の部分がおでこに当たり、たんこぶか少し切れたのか覚えていませんが、おじさんが驚き、慌てて私を連れて帰り、傷の手当てをして貰い、母親に謝っていました。
それと、おじさんからも母親からも「お前が悪い」と注意されたのですが、何でも観察するのが好きなので、その後も母親の畑仕事などを、観察しては、この作業の目的や、何故この作業が必要なのかなど、様々な理由を考えたり質問したりしていたのです。
生まれた時から様々な事を観察し、あれこれと考える事が、今も昔も私の趣味のひとつなのです。
乳離れ
ある日、急に母乳をやめるように言われたけれど、全く聞く気が無い私は、母親の乳房を慣れた手付きで取り出し、吸い付いて飲み始めたのでした。
その光景を見た祖母が「乳首に唐辛子を塗れば、辛いから、母乳をやめられるよ」と言って母親と話し合い、その場で唐辛子を用意し、ふたつにちぎって塗り始めたのです。
唐辛子など見た事が無い私は、唐辛子まみれの乳房に飛び付いたのですが、その辛さに驚きペッペッと唾を吐きだしたのです。
それを見ていた周りの大人達は効果がある事を確信し、大笑いして私に「もう母乳は飲めないよ」と言われたので、私はうなずき、乳離れをしたのでした。
この当時、母親は21歳だったので、乳房は柔らかく暖かいし、綺麗な乳房に驚いたので、今でも鮮明に覚えているのです。
豆炭あんか
生まれた家の暖房器具と言えば、最初は囲炉裏だけだったし、その後は、この囲炉裏を改造し、掘りこたつにして、中に七輪を置き、練炭を入れた簡素な暖房器具ひとつで、家族全員で使っていたのです。
寝る時は現代の寝具のように、ふかふかで軽い布団ではなく、重くて冷たいせんべい布団だったので、豆炭あんかを使って、少し温まったら少しずつ移動して、みんなで使っていました。
幼稚園の頃には、豆炭あんかで低温やけどで水ぶくれがたくさん出来てしまい、今でも大きな丸いやけどの跡が数か所、残る結果になってしまいました。
しかし、豆炭あんかが無かったら、冷たいせんべい布団では、なかなか眠れなかったと思います。
練炭、豆炭あんか、今では全く見なくなったけど、その当時は本当に助かりました。ありがとうね。
炭焼き
母親の実家は棚倉町からさらに奥の八溝山系のふもとにある山深いところでしたので、昔から炭焼きをしていました。この秋の日は、母親の兄弟や知らない人達も集まり、みんなで山に入り、山道には丸太が一定の間隔で横に埋め込まれていたので、不思議に思って聞いてみたのですが「後で分かる」と言われ、そのまま山の中に入って行ったのです。
奥に行くと広い広場があり、切り出された丸太が大量に並べられて積み上げられていたのですが、巨大な木のそりにその丸太を綺麗に並べてみんなで乗せると、崩れないようにロープで縛り、みんなでそりを押して山を下ったのです。
何故木のそりが滑るのか、それは先ほど私が聞いた、山道に並べられた丸太があるので、その上をそりが簡単に滑る仕掛けでした。私はその仕組みに納得し「なるほどなぁ」と感心したのです。
制御が難しいそりですが、緩いコーナーで男性が無理をしたので、向う脛を怪我したらしく、ズボンをまくり上げると、血は出ていなかったのですが、表面の皮膚がところどころめくれていました。
それを見て母親は「気を付けないと、同じ怪我をするよ」と言われてしまいましたが、炭焼きをしない私は(同じ怪我はしないよね)と心で思いながら、うなずいていました。従順な私でしょう?
!!子供の時はね。
蒸気機関車
幼児の頃だったと思います。
柏餅作りや福は内、鬼は外の豆まき。白と赤の団子を作り、伐採してきた木に刺して豊作を願うなどの様々なイベントを、爺ちゃんは私の為に、小学4年生の頃までいろいろやってくれたのでした。その証拠に、弟達の時には、面倒だったのかも知れませんが、何もやらなかったのです。
そのひとつに、蒸気機関車の時代が終わる前に、私を乗せてやりたいと、郡山から白河市まで蒸気機関車に乗せてもらいました。
もうすぐ無くなるからと言われたので、郡山の駅のホームに到着する蒸気機関車を観察していると、積もった雪を左右に別けて進む為のカバーが付いていて(なるほどな。これで雪を左右にどかしながら進むんだ。便利な道具だな)と思いながら、爺ちゃんと一緒に蒸気機関車に乗って、白河に帰って来たのです。
本当に今考えると、爺ちゃんの優しさと思い遣りに、感謝したいと思いますが、私が中学3年の時に、亡くなってしまったので、恩返しが出来ませんが、仏壇には、どこの家にも先祖が居ない事を知っているので、今度、爺ちゃんが大好きだった日本酒とつまみを用意し、呼んで一緒に飲みながら、感謝をしたいと思います。
出来るのかって?出来ないかも知れませんが、心を込めて行えば、可能かもしれないので、やってみたいのです。心から感謝して、一緒に酒を飲みたいのです。
菖蒲湯と蟯虫
私が幼い時は、今のように豊かでは無いので、風邪で高熱を出せば、菖蒲を池から取ってきて、やかんに入れて煮出して、よく飲まされたのですが、苦いだけで風邪には全く効きませんでした。
市販薬を買う余裕も無かったし、間違った民間療法しか無いので、風邪を引くたびに飲まされたのです。
私の記憶では、風邪を引いて熱が出ると、歩けないし、呼吸が苦しくて長引くので、なんでこんなに苦しいの?今度こそ、死ぬかも知れないと思うほど苦しかったし、後に、女の子より男の方が弱いとか聞いたので「それでか」と思った記憶があるのです。
小学生になる頃は、富山の薬売りが我が家にも来たので、数種類の薬をプラスチックのケースに入れて常備されたので、それ以降、あれほど苦しんだ風邪を引いても、それほど悪化しなくなったし、富山の薬売りが来ると、紙風船などの様々なおまけを貰ったのが嬉しかったし、それでよく遊んだのです。
それから、何年かして、家族がいない間に、弟が虫下しの薬を全部飲んでしまって、叱られた事もあったのです。
この頃の私達の生活は、衛生的ではなく、腹のなかに蟯虫が居た人も多く、毎年学校で全校生徒は蟯虫検査をさせられ、蟯虫が居ると分かれば、虫下しの薬を渡され、私も何度か薬を飲んだのでした。
薬を渡された生徒は、他の生徒から「汚い」とか「蟯虫を飼っている」とか、必ず同じ人が大声で言って、嫌な顔して避けられていたのですが、何日か過ぎると薬で出てしまうので、それ以降は避ける人も居なくなっていたのです。今も昔も、大声で騒ぐ人って同じ人ですよね。
それに小学低学年まで、ノミもシラミも居たので、一回だけですが、アメリカのDDTを体中に散布された事もあったのです。
芋虫?
ある秋の日、爺ちゃんと婆ちゃん、母親と1歳上のおばさんの四人で、我が家の所有の山に、谷間の斜面の木を伐ったり、雑木を刈ったりしに歩いて行きました。この当時は機械化が進んでいないので、移動は全て歩きでした。
私とおばさんは幼児なので、何も出来ないので、ぶらぶらと適当に遊んで居ましたが、そこら中にある雑木を切っては焚火をし、鉄瓶に清水をくんで直接焚火の上に乗せ、湯を沸かしたりしてから、爺ちゃんは大きな木を伐っては、同じ長さに切っていました。
木の枝は婆ちゃんが鉈で落とし、まとめて縛ったり焚火で燃やしたりしていました。
母親は雑木を切っては膝を使って体重を乗せ、縛り上げていました。私は縄も持って来なかったのにどうするの?と聞くと、地面を這って伸びている蔦を鎌で切り、このつたで縛るんだよ。太い蔦はここに切れ目を入れて、半分に割けば細い縄になるからと教えてくれ、素早く雑木をまとめていました。
爺ちゃんのところに行くと、私に一本の木の棒を見せ「この木の棒の長さを定規にし、そろえて切れば全部同じ長さになるだろう?だから、この木は馬鹿でも同じ長さに出来るから馬鹿棒って言うんだよ」と教えてくれたりしていました。
休憩時間に焚火に集まると、湯を沸かした鉄瓶から茶碗に湯をそそぎ、みんなで飲んでいましたが、焚火にはいつの間にか、爺ちゃんが木の中に居る芋虫?を集めて焼いていたのです。
爺ちゃんから「旨いから食ってみろ」と、それを渡されたのですが、真っ白い芋虫を焼いたので、ところどころ焦げ目があるのですが、食べる勇気が無く躊躇していると、爺ちゃんが食べ始めたので、私は恐る恐る食べたのですが、中身はトロっとしていて凄く旨いと思ったので、数匹食べてしまったのです。その後、同じ経験をした事は無かったので、記憶にはこの日の一回限りでした。
伐った木は、冬用の薪にしたり雑木は火を起こす時に使ったりするし、この日の作業は、間伐でもあったのです。
あせもとミイラ
私が幼い頃、皮膚が弱かったのであせもが首全体を覆ってしまい、あせもから水が滴り落ちるほど悪化した時に、父親が常備薬のクミアイオーカン(キンカンと似た薬かな?)を私の首に塗りたくり、その痛みで絶叫するほどでしたが、怒鳴られ、首全部に塗り終わるまで我慢しましたが、全く治らず白河市の病院に行く事になったのです。
その病院では診察をしてから、看護婦さんから血管注射を打たれるのですが、注射をされた瞬間から体中が徐々に熱くなり、少し汗ばむのですが、注射が終わると首全体と顎のあたりまでぐっしょりと水浸しのようになっているので、軟膏を塗ったあと、顔から首まで包帯でぐるぐる巻きにされ、目のところだけ穴を開けられ、まるでミイラのようでした。
帰りには、歩いていても、バスに乗っていても、周囲の人達から注目を浴びていましたが、考えてみれば、ミイラがそこに居るのですから、当然目立ちますよね。
その後も、何回かその病院で血管注射をされミイラにされても、全く治らないので、別な病院に行くと「え?血管注射?何の為に?」と聞かれても答えられないし、その先生が笑って「この軟膏だけで治るよ」と塗ってくれたのですが、あっという間に患部が乾き、みるみるうちに治ってしまったので、ミイラ姿も終わってしまったのでした。
先生に凄い薬ですね。一回で治ってしまいましたと言うと、市販のオロナイン軟膏を知っている?同じ成分の薬なので、またあせもになったら使ってみて下さいね。それで治らなかったらまたおいで」と言われたので、その後は常備薬として大事に保管されたのです。
今でも皮膚がピリピリすれば塗っていますしね。
名前を書く練習
今回は幼稚園に入る前の準備のひとつ「名前を書く練習」の話です。
「これがお前の名前だ。これが書けないと幼稚園にははいれないから、覚えないとな」と言われ、初めて自分の名前をひらがなと漢字で書いて見せられました。みなさんもこんな経験をしましたよね。
私も幼稚園に行きたいので必死で練習していると、ひとつ年上のおばさんが隣に来て「カタカナではこう書くんだよ」と書いて見せてくれたのですが、私は驚いて「え?自分の名前の書き方がひらがな、漢字、カタカナの3つもあるの?」と驚いていると「そうだよ」と言われ、私は(え?何で?口に出して言えば誰が言ってもひとつの言葉でしかないのに、書けばひらがな、漢字、カタカナの3つに増える?え?何の為に?何故そんな面倒な事を?と疑問に思ったのでおばさんに伝えると「漢字には一文字一文字に意味があるんだよ。だから名前にも意味があるしね」・・・。な・なるほどね。仕方がないかと、諦めました。
私がもう少し大人になればこの説明で納得出来るのですが、幼稚園に入る前の私の思考能力では、さらに疑問が増えてしまうのです。例えば、漢字一文字一文字に意味がある?何の為に意味があるの?自分の考えを伝える為に言葉があるのに、その言葉を書けば、わざわざ3つに増やして書く意味が全く分からない・・え?漢字はたくさんある?それを全部覚える?えー!!そんな大変で面倒な事をしなくては駄目なの?人間ってなんて面倒なんだ。俺・・。やっていけるかな?と、がっかりしていると、おばさんが「外国に行けば言葉も文字も違うよと教えられ、私は驚き、え?なんだって?と、がっかりしたのです。
自分の考えや意志を伝える内容は一緒なのに、何故人間は国によって発音や文字を変える必要があるの?人間には歴史があるのに何故、言葉や文字を統一しないの?最初は大変だけどみんなで共通語を決めて覚えてしまえば、世界中の人達が同じ言語で話せるし、子孫達も外国語を覚える必要が無くなるので楽になるよね。それなのに何故先祖達はやらなかったのだろうか?共通語になっていれば、私達の世代はみんな、かなり楽が出来たのにとブツブツと文句を言っては諦めて文字を書く練習をしました。
私のこの時の性格は、面倒くさがり屋なので、面倒な事や複雑な事はやりたくないし、覚えたくない。かなり厄介な性格を持っていますよね。今でもこの性格は直りませんけどね。
おもちゃのライター?
今回は「おもちゃのライター?」で怒られた時の話をしたいと思います。
隣近所の同級生とは、毎日のように遊んでいたのですが、ある日、ひとつひとつ透明なビニール袋に入った、カラフルでとても綺麗なデザインの、ジッポライターのミニチュアを大量に持っていたのです。
これは?と聞くと、昨日父親が買ってきたんだよと、友達が説明し、そのひとつを袋から取り出して「ジッポライターと同じで、ここからオイルを入れると、本物のライターと同じように使えるんだよ」と、火花を出して見せてくれました。
しかし、私にはライターには興味が無かったし、必要がなかったので、受け流していたのですが、帰り際に、封を切ったひとつのミニチュアのライターを差し出し、「これあげるよ」と言って来たので「いや、いらないよ」と断ると、「良いからやるよ」と何度も何度も押し問答をしている時に、友達の父親が帰って来て「そのライターは、オイルを入れなければ火が点かないし、持っていても安全だから貰っておけ」と言われ、断れない私は仕方がなくズボンのポケットに入れて、帰宅したのです。
家で夕食も終わり、ゆったりと横になっていた時です。珍しく父親が私を抱いたりくるくると回転させたりと私の体で遊んでいました。すると突然、私のポケットに固い物が入っている事に気が付き、手を入れポケットからカラフルで小さなライターを取り出したのです。
私はライターの事はすっかり忘れていたのですが、父親は火花が出る事を確認すると「何でライターを持っているんだ?」と怒鳴って来たので、友達に貰ったと説明すると「これで火遊びをしているのか?この馬鹿」「あ。これで家を燃やそうとしたのか?この野郎」と烈火のごとく怒鳴り、殴り掛かってきたのです。母親が止めても聞く耳を持たない父親の罵声と怒鳴り声が家中に響き渡ったのです。
私は父親を見ないようにして横になり、心の中で、家に火を点ける?そんな馬鹿な事はしないよ。それにオイルが無ければどんなに火花が出ても、火が点けられないし、オイルの買い方も分からない。お金も無いのにどうやったらオイルを手に入れるんだよ。それに、いらないと何度も断ったのに、安全だから貰っておけと言われ、断れないので貰っただけなのに、何故、理由を全く聞かないで怒鳴っているんだ?と父親の怒りが収まるまで、いつものように心の中で反論していたのです。
怒鳴って殴って満足したのか、父親はようやく落ち着き、家族全員が沈黙したまま、この日は終わったのです。
夏祭り
今回は幼い時、夏祭りの日に起きた出来事を話したいと思います。
ある夏の日、午後の3時を過ぎた頃だろうか。父親が母親の実家に泊まりに行くので、一緒に行って来なさいと母親に言われたので、父親と2人で車に乗り出発しました。
約、10㎞くらい走ると、小さな町に着いたので、私はお店が並んだ街並みを眺めていました。すると、父親が道路沿いにあるお店の前に駐車し「少し知り合いに挨拶に行ってくるから、ここで待っていろ」と言って、ドアを閉めて行ってしまいました。
それから何時間が過ぎたのだろうか?周りは薄暗くなり、まだ帰って来ないのかな?と思っていると、知らないおじさんとかなり酔っている父親が現れ、「これが俺の息子だ」と笑って紹介し、知らないおじさんもかなり酔っているらしく「そうか、そうか。あ、そうだ。少し入った所に神社があって、今日は祭りだから出店もあるから行ってみろ」と言われ、父親も「そうだ、行ってこい」と言いながら、その当時の30円を私に渡して、おじさんと一緒に消えて行きました。
私は腹が減って辛かったので、神社に急いで向かったのですが、出店の数が少ないうえに、食べられる店も一軒しか無く、渡されたお金では安いオモチャしか買えないので、諦めて車に戻り、眠ってしまったのです。
何時間が過ぎたのだろうか、ドアが開く音がしたので目が覚め、泥酔した父親が「行くぞ」と車に乗りこんできたのです。私は泥酔している父親を見て、これは行く事は無理だなと思い、引き返すのかなと思っていたら、母親の実家に向かって走り出したので、とても驚いたのです。この頃の私は、夜の八時には寝るようにと、しつけられているので、走り始めると、あっという間に眠ってしまいました。
それから「着いたぞ」と言われ、起こされてやっと目的地に着いたのですが、時計を見たら夜の10時を過ぎていました。母親の兄から「今日はお前が来ると聞いていたので、大好物のふき煮を作って待っていたんだぞ。まさか、こんなに遅い時間に来るとは」と呆れた表情で父親を見て、嫌みを言っていました。私は「え?ふき煮?食べたい」と言うと「ご飯はどうする?」と言われたので、ご飯も食べたいと言って、お膳を出してくれました。
私は空腹で「やっと食べられる」という思いと、大好物のふき煮が食べられる喜びで、むさぼって食べていたら、ぼろぼろと涙が溢れ、泣きながら食べていたのです。その光景に周囲の人は驚き「夕飯は?食べたのか?」と質問されたので、私は顔を横に振りながら、黙々と食べ続けました。
それを聞いた母親の兄は、父親に向かって「自分の息子に何も食わせないで、自分だけ飲み食いしてたのか?この馬鹿野郎が」と怒ってくれました。
私はご飯を食べると満足し、また、眠ってしまったのです。
自転車のライト
今回は「自転車のライト」の話をしてみたいと思います。
5歳か6歳の頃だったと思います。隣近所の同級生と、1歳年上の友達の親が集まり、話し合って子供用の補助付きの自転車を買ってもらいました。三台共同じ青色の自転車でしたが、私の場合、自分の給料を全く家に入れない父親ではなく、いつも面倒見てくれている祖父が買ってくれました。私達3人は嬉しくて、その日から楽しく自転車を乗り回していました。
ある晴れた日の事です。年上の友達が「この自転車にライトを付けたい」と言い、これからこの自転車を買った店まで、約1km離れた場所まで行くと言い出したのです。私と同級生はそれに従い、3人で自転車屋さんまで、補助輪付きの自転車で向かったのでした。
お店に着くと、自転車のライトを付けたいと言うと、店のおじさんは「親は付けても良いと言ったのか?」と聞くと、「うん」と答えていました。「本当か?」と念を押して聞いても、年上の友達は「うん、大丈夫」と答え、ライトを取り付けて貰い、今度は私達の方を向いて、「お前達はどうするの?」と聞いてきたので、同級生は「俺も付ける」と言って、ライトを付けて貰いました。最後に残った私に「お前は?」と聞かれたので「私はいらない。付けない」と言って断り、その後、3人で帰って来ました。
その日の夕方、ライトを付けてしまった二人は、親から散々叱られていましたが、私は祖父から「よくお前はライトを付けなかったな。偉いぞ、二人が付けたら自分も付けたいと思うのが普通なのに、よくお前だけ付けなかったな。でも何故、付けなかったんだ?」と聞かれたので、私がライトを付けなかった理由が2つあるのですが、説明が上手く言えないので黙っていると、祖父はそれ以上聞く事を止め、満足気な顔をして、嬉しそうに私を見ていました。
私が自転車のライトを付けなかった理由は、我が家は裕福では無く、この自転車も無理をして買ってくれたかもしれないし、これ以上、お金の負担をかけたくなかった事が大きな理由でした。その次の理由は、補助倫付きの自転車で夜は絶対に乗らないので、ライトは必要が無いと判断し、ライトを付けなかったのです。
私の考えと判断は正しかったと、祖父の笑顔を見て確信し、大満足の1日でした。
スパイクタイヤ?
今回は「え?スパイクタイヤ?」と驚いた時の話をしたいと思います。
隣近所にいつも一緒に遊ぶ同級生の男の子がいたのですが、その子は私と全く違う性格と考え方をしていたので、時々驚かせてくれます。
ある日の事、その子の家に遊びに行き、敷地内に入った時の事でした。目に飛び込んで来たのが三輪車のタイヤ全てに長い釘がたくさん撃ち込まれていたのです。え?何この釘?釘が長いから三輪車のタイヤが全く動かないよね。これでどうするつもり?全く動かない三輪車って使い物にならないよね?勿体ないとは思わないのかな?と、友人の行動に理解が出来ませんでした。
そこに現れた友達に「これは?」と三輪車を指さして問いただすと「あっ、これね。これはね。スパイクタイヤにしたんだよ」私は驚いて「何の為に?」と聞くと「車はね。冬はスパイクタイヤで走るんだよ。だから、この三輪車も雪道が走れるように作ったんだよ」と得意げに言っていたのです。私は心の中で(え?雪道?雪が積もったら三輪車では走れないよね?それに、釘だらけの三輪車は動かないから走れないよね?その事は、考えていないの?もっと小さな釘で、タイヤが回るようにすればいいのに)と思ったのですが、友達には言えませんでした。
この当時の私の家は農家で自給自足のような家なので、オモチャもあまり買って貰えないので、三輪車に釘を打つような事はもったいないので出来ませんが、この友達の家は会社員なので現金があるので、私の家より裕福だったのかも知れませんよね。だからもったいない事が平気で出来るし、親から怒られないのかも知れないと想像していたのです。
有頂天
今回は「褒められて、有頂天」になった時の話をしたいと思います。
ある日、突然父親から褒められて驚いた事がありました。
自分では当たり前に出来る事なので、何故、こんな事で褒められるのか、全く理由が分からないのですが、それでも父親は褒めるので、俺って凄いの?と徐々に小躍りし、はしゃいでいました。それを見ていたひとつ年上のおばさんが、嫌な顔をして私を見ていました。
それでも、俺は凄いぞと有頂天になって小躍りしていると、先ほどまで褒めていた父親が、いきなり「この馬鹿!調子に乗ってんじゃねぇ」と怒鳴ってきました。
私は驚き、え?だって褒めたのはお前だろう?初めて褒められたら、浮かれてしまうのは当然だよね?だって俺、幼児だし、有頂天になるよね。怒るなら、最初から褒めるなよと心の中でつぶやいていました。
しかし、ひとつ年上のおばさんが嫌な顔をするほど、有頂天になっていた自分が嫌になり、それ以降、褒められても浮かれないように、有頂天にならないように気を付けないと、と思ったのですが、褒められたら誰でも嬉しいですよね。
ですから、私は言いたい。褒められて浮かれてしまうのは、有頂天になってしまうのは、私が悪いのではなく、褒める人が悪いからだ!と、言ってしまいたい。
アニメを見ていた時
今回は「アニメを見ていた時の出来事」を、話したいと思います。
かなり幼い頃「今日はテレビが届くよ」と言われ、初めて見るテレビにドキドキしながら到着を待っていました。後で聞いたらテレビを買ったのは我が家だけだったそうで、相撲の時間になると部落中の人達が集まり、鈴なりの状態で見ていたそうです。当然、白黒テレビですけどね。
私が5歳の頃からアニメの「おばけのQ太郎」が放映され、夕方から夢中になって見ていました。その時近くに住む親戚のおばさんが「何故おばけのQ太郎は空を飛べるの?」と私に質問してきたので、何気なく「風船でも入っているのかな?」と答えた瞬間、父親が「この馬鹿やろう!漫画だ!紙に書いてあるだけだろう!」と怒鳴りまくりました。私に質問した親戚のおばさんも家族も一瞬で凍り付き、それ以降、誰も話をしなくなりました。意見や反論をすれば、大暴れするかも知れない父親には、腫れものを触るようにしていたのです。
私が子供の頃は、現代のような子育てではないので幼い時から「子供は黙っていろ!」「大人の会話に口出しをするな!」。「うるせー、このクソガキ」。「生意気だ!黙れ!クソガキ!」なんて怒鳴る人が父親だけではなく、知らないおじさんからも常に怒られていたし、殴る人もいたので、怒号に慣れてしまったのです。
ですから、どんなに怒鳴られても、どんなに罵声を浴びても平気になったし、幼児の時から冷静に分析する事を学んだので、どんな説明をすれば、どんな反論や反撃をすれば、どんな対応をすれば、二度と威嚇や恫喝が出来ないように出来るのかなど、様々な方法を考えていたので、使える手はかなり持っていたのですが、父親のように、大人になっても自分の思う通りにならなければ、気に入らなければ、恫喝や暴力行為で人を従わせようとする駄々っ子には、どんなに時間を掛けて説明しても理解が出来ないので、無駄だと悟ったのです。
タニシ
私が幼児の頃までは、耕運機だけしかなく、あとは、鍬や鎌などの手作業が多かったですよね。
食事もこめだけでは足りないので、うどんや蕎麦なども時々ありました。おかずも都会や町と違って、我が家のような農家は現金収入もあまりないので、自給自足のような生活でした。父親は会社勤めでしたが、ほとんどは自分の為だけに使っていたので、余計、貧乏な暮らしでした。
なので、たんぼにタニシが多く繁殖すれば、みんなで拾い集め大きなたらいに入れて、水道水(山に井戸を掘って、パイプで引いた水道)を少しずつ流し入れ、何日もかけて泥を吐き出させるのです。
この当時、私達はタニシとは言わず「つぶ」と言っていました。泥抜きが終われば味噌汁の具材として煮て、ご飯のおかずにするのです。食べ方は蓋の隙間に楊枝を刺し、くるりと回転させれば中身が出てくるので、その身を食べるのです。
特に味付けはしないので、味噌汁の味で食べるだけなのですが、それでもおかずがあるのは嬉しかったのです。
小学の高学年の頃から、タニシを取りに行く余裕はなかったし、徐々に、本当に少しずつ、おかずが増え始めたので、しょうゆだけの掛ごはんとか、梅干しだけのご飯とか、漬物だけのごはんだけとか減ってきたので、このタニシは、これ以降、食べた事は無かったのです。
タニシにとっては、めでたしめでたしですよね。
初めてのボタン
今回は「私が生まれて初めて、ボタンがけをした時」に考えた事を話したいと思います。
ある時、母親から「自分で服を着られないと、幼稚園にも、学校にも行けないから、自分で着る練習をしなさい」と言われ、それはそうだよなと納得し、自分で服を着てみました。
ゴム入りのズボンは問題なく穿けたのですが、上着を着てボタンを留めようとした時です。何度やっても、自分の思う通りに指が動かず、ボタンが留められないのです。
私は心の中で(なんて使いづらい体を貰ったんだ。これは練習をして、自分の思う通りに動く指にしなければ)と思ったのです。この当時の私は、「この体はこの世での借り物」という感覚が強く、自分の本当の姿ではないと時々思う時がありました。
ですから、初めて靴紐を結んだ時も、思う通りに動かない自分の指を見つめ「この体で生きて行くのだから、早くこの体に慣れないと駄目だな」と、思ったのです。
みなさんはいかがでしたか?自分の体が借り物だと思った事は無いですか?
おなかが空いた?
今回は「お腹がすいた?」に付いて、話したいと思います。
私が幼児の頃だったと思います。
家から歩いて行ける距離なのですが、小高い山を越えた処に畑と田んぼが何枚かあり、この日は、母親が鍬を持って畑仕事をしていました。私は観察が好きなので、畑を耕す様子や土の感触、育った作物などを眺めていました。
すると母親が「腹が減ったね」と言ったのですが、私は腹が減ったとはどんな事なのか、理解が出来ずに、首をかしげて母親を見ると「腹が減らないの?空かないの?」と聞いてきました。私は心の中で自分に問いかけ答えを探そうと考えます。(腹が減ったって何?空いたって何?どんな感じを言っているの?母親が言っている腹が減る、空くってみんな同じ感覚なの?どの感覚を言っているの?どれ?・・・分からない・・・私は腹が減る感覚がどれだか、全く理解が出来ませんでした。
母親に問いかけられても、どう答えて良いのか分からずに立ちすくんでいると、腹減ったって分からないのか?と母親が聞いてきたので、私は慌てて「腹が減ったね」と、答えると「そうだろう」と母親は満足し、二人で家に戻ってお昼ご飯を食べました。
それ以降、腹が減る感覚は、これか、と、やっと理解が出来たのです。
拉致?
今回は幼い時の出来事。「拉致」に付いて、話したいと思います。
何歳の頃だろうか・・・かなり幼かった頃だと思います。
ある日、20代前半の男性が「お前は〇〇の子か?」と父親の名前を言ったので私がうなずくと「こっちへ来い」と連れて行かれました。連れて行かれた場所は壁板の隙間から外の光があちこちから漏れて、照明が無くてもはっきり見える小さな納屋でした。中に入るともう一人の男性が壁にもたれかかっていて待ち構えていました。
私はその男性を見た瞬間、息を飲みました。その男性は目を真っ赤に腫らして涙を浮かべ、私を睨みつけていました。私はとっさに、父親がこの人達に泣くほど、これほど憎むほど酷い事をしたのかと思い、悔しかったんだろうな・・辛かったんだろうな、自分を苦しめた相手の息子に復讐しようと考えてしまうほど、追い詰めてしまったのかと悲しくなりました。この人達が私を殴って気が晴れるのなら。私を殺して気が晴れるのなら。仕方がないなと無抵抗で殴られようと、殺されようと覚悟を決めました。
その瞬間、目を腫らして泣いていた男性は私を連れてきた若い男性に向かって「もういい・・帰してやれ」と命令したので、私は無事解放されました。私は、幼児体型の自分の姿を見て、それはそうだよね、幼児の俺に、自分の恨みを晴らす為に、憂さ晴らしの為に、殴ったり殺したりしないよなと、帰りながら考えていました。
その時の青年達の悔し涙と表情は、可哀想で今でも忘れられないし、拉致された事を誰かに言ってしまえば、この青年達は、もっと追い込まれて苦しむだろうなと考えたので、私の中だけの出来事にし、拉致された事は誰にも言えませんでした。
これ以降も「お前は〇〇の子か?」と言われるたびに、幼い私に「お前の親父はな!こんな事をしたんだぞ」と責めたり怒ったりする人が何人もいました。私は直接父親に言えばいいのに・・と思いながらも、大人には抵抗が出来ないので黙って聞くしかなかったのです。小学の3年の頃まで「お前は〇〇の子か?」と言われる度に「拉致される?」と恐怖で体が強張り、今度こそ殺されるのではないかと、覚悟をしていたのですが、やっと4年生になる頃から、怒鳴ってくる大人が居なくなって、ほっとしました。
親の因果が子に報うとは、まさにこの事ですよね。
え?ここはどこ?
今回は私が幼児の時に「え?ここはどこ?」と戸惑い、絶望した日の記憶を紹介しますね。
かなり幼かった頃、私は呆然と立ち尽くし、え?ここは、どこ?え?動物だらけの星に生まれて来てしまったの?ねぇー!聞いてる?生まれて来る星、間違えているよ。と、必死に天に向かって、心の中で叫んでいました。簡単に説明すれば、映画の「猿の惑星」と全く同じ状態で、猿の惑星に降り立った宇宙飛行士の気分でした。
私の葛藤は続きます。どんなに絶望しても生まれて来てしまった以上はどうする事も出来ないですよね。私は生まれたばかり・・この動物の世界であと60年も70年も生きなくてはならないのかと、この動物の世界で自分は生きて行けるのか、生きられるのかと、さらに絶望してしまったのです。
あまりにも衝撃的で、強烈なこの記憶の最大の原因は、父親や隣近所の人達を観察した結果、人間のレベルの低さ、愚かさ、心の汚さに驚き、絶望したのだと思います。
特に父親は、働きたくない、自分だけ楽をしたい人なので、自分は全く動かず、母親や我が子に命令してやらせる人でしたし、自分の思う通りにならなければ、自分の言う事を聞かなければ、気に入らなければ、怒鳴る、物をぶつける、殴るなど、暴れる人で、まるで幼児の駄々っ子と全く同じ行動をする人でした。
いきなり「この馬鹿野郎」とか「こんな常識も知らないのか」と怒鳴っては、殴る、物を投げつける、暴れるので、私も母親も抵抗出来ずにやられるままでした。今の時代から言えば虐待やDVを平気で出来る人でした。
私の父親は、男ひとりに妹が5人の兄弟でしたので、農家の跡取りとして、大事な孫として、曾祖父から大事に育てられ、小学1年の頃から酒が飲みたいと言えば、曾祖父に抱っこされ、一緒に晩酌したりと相当甘やかされたそうで、祖父が見かねて注意したり叱ったりすれば、曾祖父から怒られたそうで、いっさい手出しが出来なかったと言っていました。
曾祖父が死んだ後、父親は今まで通りに気に入らなければ暴れるので、祖父が叱ったり縛ったりすれば、「あの時は助けてくれなかった」と、祖母を逆恨みするし、働きたくないので近所から時計や金目の物があれば借りて来て質屋に入れてしまう。返却してくれと隣近所から言われて初めて知った祖父が、質屋から買い戻していつも返却していたそうです。
我儘で自己中なので毎晩のように酒を飲んでは逆切れするし、自分の思う通りにならなければ、怒鳴る、殴る、蹴る、暴れる、物を壊すなど日常茶飯事でした。そんな父親を見て祖父は泣きながら「お前を殺して俺も死ぬ」と毎日のように父親と取っ組み合いの喧嘩になり、残りの女性達と子供の私は飛んで来た物で怪我をしないように、部屋の片隅に避難していました。
もっともショックだったのが、父親は喧嘩を止めようと仲裁に入った自分の妹を押し倒し、泣き叫ぶ妹の髪の毛を掴んで引きずり回して「お前を売ってやろうか」「売られたいのか」と怒鳴っている光景でした。この時初めて、人身売買がある事を知りましたし、逆らったら売られてしまうのかと驚愕しました。この光景を見た私はあまりのショックで、今でもこの時の光景が忘れられず、思い出すたびに涙が溢れます。
私は何故、人間は争うのか、何故、毎日喧嘩ばかりしているのか、何故、争わなければ生きられないのか、隣近所の家でもどこの家でも、毎日喧嘩をしているのかと悲しくなり、見守る事しか出来ませんでした。後に、家族で喧嘩して争っていたのは我が家だけだったと知り、ショックでしたし、我が家の喧嘩が始まると、隣近所の人達は集まってきて、息を殺して聞き耳を立てていたそうです。テレビも無いし娯楽が無い農村だから話題が欲しいのだろうと思います。人の不幸が大好きな人間は多いですしね。
多分この光景を見た私が、人間のレベルの低さ、愚かさに驚き、絶望してしまったので、強烈な記憶になってしまったのではないかと思います。
我が子を注意しない、叱らない、何でも言う事を聞いてしまう親って、現代でもいますよね。自分の子育てが、我が子の将来にどんな影響を与えるのか、孫達子孫にどれだけ悪影響を与えるのかなど、全く考えていないから、我が子が可愛いからと、甘やかしてしまうのでしょうね。
子育てが、我が子を成長させる事が、いかに重要なのか、分かりますよね。
ですから、私はこの時から、幼児の時から自分が親になったら、子育てはどうすれば良いのか、父親を反面教師として、やって良い事と駄目な事など、様々な事を検証する日々が始まったのです。
初めて立った日
今回は私が生まれて二番目の記憶。「初めて立った日」です。
私が次に記憶しているのは、ハイハイから間仕切りの板戸を掴んで、踏ん張りながら立ち上がった時でした。起ちあがった瞬間、親戚の人や祖母、母親など、はやし立てるように拍手をし、大喜びをしてくれました。私はみんなが喜ぶ姿と、ほめてくれたので、手足をばたつかせ有頂天になっていました。
その時、誰がどこに座って、どんな事を言っていたのか、どんな姿で喜んでいたのか、どの位置で、どの戸板につかまって立ち上がったのかなど、今でも鮮明にはっきりと覚えているのです。
後に、これほど喜んでくれたのは、私が初めて立った日だったからでは無いのか?と状況判断をした結果、私の二番目の記憶だと、判断したのです。
初めての記憶。ハイハイ
今回は「初めての記憶。ハイハイ」です。
私の最初の記憶は、突然目が覚めたように、自分がハイハイをしている時でした。私は驚き「これが肉体なのか?」。「動いている、動いている。両手、両足とも交互に動いている」と、自分の体を観察し、自由に動く手足に満足し、嬉しくて、嬉しくて一生懸命に手足を動かしていました。これが初めての記憶なのですが、その後の記憶は、突然眠ったように何も覚えていませんでした。
私、誕生
私は1960年に、農家の4世代が同居する大家族の中で生まれました。この当時の周辺の農家は、まだ機械化があまり進んでおらず、牛が田んぼを耕していたし、耕運機がやっと出回り始めた時期でした。その当時、祖父から「昔は朝から晩まで、全て手でたがやしていたから、大変だった」と教えられ、幼い頃でしたが、昔に生まれなくてよかったと思ったものでした。
この時代はテレビも電話も無く、現代では考えられないほどの大きなラジオがあり、それも時々聞く程度でした。それに、農家の我が家には、シャンプーやボディーソープも無く、全て石鹸で洗っていましたので、髪の毛がゴワゴワと痛んでいました。小学生になった頃にやっとシャンプーが我が家に来たので、女性達は嬉々として喜んでいました。それほど、何も無い時代でした。
この当時の食事と言えば、漬物や梅干しだけとか、味噌汁だけの食事も多かったし、肉が食べられたのは年に数回、卵を産まなくなったニワトリを食べるか、冬の間に祖父が罠で捕まえた、野うさぎを食べるくらいでした。
今から考えれば、私が生まれた農家では、江戸時代のような、何も無い生活から一気に15年くらいで、テレビや電話が普及し、様々な機器が開発され、食事も改善され、驚くほど文明が進化した激動の時代だったのではと、思います。