幼稚園時代

初めての釣り

山の中にある池で、初めての釣りをしたのですが、全く釣れないしウキも全く動かないのです。諦めて家に帰ると父親に出会い「釣れたのか?」と聞かれたので「全く駄目だと」言ったら「そうかそうか」と笑いながら「釣りって意外と難しいんだよ」と言って「今度、入れ食い状態に釣れる池に、連れて行ってやる」と言ったのです。

それから数日後、近くの池に車で行き「ここは大量に魚が居るから、入れ食いだぞ」と言われたので、早速釣りをしたのですが、父親には言葉通りの小魚の入れ食い状態なのですが、私はさっぱり釣れません。

私は「全然釣れないじゃないか」と腹を立て、釣竿を捨ててしまったのです。その行為を見ていた父親が「釣りは短気な人ほど釣れるんだよ。釣れないほど、どうすれば釣れるのかと工夫するからな」と言ったのですが、私は釣り竿を放棄したまま、何もしないと、父親が「俺も短気だけど、お前の短気の方が凄いな」と言って驚いていたのです。私は(釣りをする時間がもったいないし、興味が無いんだよ。釣りより一網打尽の投網の方が性分に合っているなと思ったのと同時に、他にやる事があるんだよ)と思ったのですが、え?やる事?何?と考えたのですが、何も分かりませんでした。

この日、分かった事は、自分は父親より短気な性格である事と私には何かやる事がある事でした。この日から穏やかでゆっくりと行動する事が出来る人や、女性が、好みの人になったのでした。自分には無い性格だしね。その人からどうすればなれるのか学ばないとね。

アルビノ

幼児の頃、母親の実家に行き、母親の兄の次男が同い年だったので、いつも一緒に居たのですが、向こうから歩いて近付いてくる男の子に釘付けになってしまいました。

歳は私より1歳か2歳くらい年上なのですが、髪の毛は真っ白で目の瞳は真っ赤だったのです。初めて見る容姿に驚き、思わず凝視してしまったのです。足が悪いのか、両足の長さが違うのか、ピョコタンピョコタンと歩いていたので、私は(あ、びっこだ)と思い、男の子が過ぎ去ると。とっさに(足の長さが違うってどんな感じなんだろう?)と思ったので、片足が短いと想定して歩いてみたのですが、それを真似して次男も一緒になってびっこ状態で体を揺らして練習をしていたのです。

その時、突然ガラス窓越しに「こら!やめなさい。人を馬鹿にするな。真似をするな」と母親の母親、祖母に叱られたのです。私は心の中で馬鹿にしたのでもなく、蔑視したわけでもなく、どんなもんなのかと真似をして、その感覚を知りたかっただけなのです。

その男の子はすぐ隣の家の男の子で、その時の一回しか会った事が無いので、一生、その家で引きこもって過ごしたのだろうと思います。

後にテレビで、アルビノと知り、こんなに近くにも居たんだと驚きましたし、今になれば、孤独な人生を送ったんだろうなと想像し、友達になって一緒に遊んであげれば良かったかなとも思いますが、反面、前世で何か酷い事をしたから、今世はアルビノになってしまったのかなとも思ったのです。

私ほど?

幼稚園の帰り道、バス停まで母親が迎えに来たので、一緒に峠を歩いていた時でした。

時々父親からDVを受けている母親が突然「私ほど不幸な人は居ないって他の人にも言われた」と言って得意げな顔をしながら、悲しい顔をしたので、私は驚き(え?離婚すればその問題は解決出来るし、この前、離婚してくれって頼んだよね?何故、離婚しないの?それに、私ほど不幸な人は居ない?何言っているの?世の中には母親より不幸な人が数え切れないほど居るよね?)(それに、世界中の不幸な人から見れば、母親は幸せだよね。)と心の中で自問自答しながら、母親の顔を見れば「悲劇の主人公」になりきって、不幸な自分を楽しんでいるようだったので、母親の思考能力の弱さに呆れ、何を言っても理解が出来ないだろうと思った私は、放置した方が良いなと判断し、その事には一切触れずに、黙ったまま帰宅したのでした。

悲劇の主人公、悲劇のヒロインになりきっている人を見ると、楽しいの?世間知らず?馬鹿なの?と思ってしまうのは、私だけでしょうか。

紙芝居

今回は「紙芝居」の話です。

私が通った村立の幼稚園は、1年前から出来たので、私達は2期生になるのですが、1期生は幼稚園が出来たばかりなので、ほとんど園児が集まらなかったそうです。

幼稚園は1年間だけでしたので、卒園まではあっという間に過ぎてしまいました。もうすぐ卒園を控えた時期に先生が、最後に皆さんの好きな紙芝居をやりたいと思います。読んで欲しい紙芝居を選んでくださいと言ったので、園児達は急いで紙芝居が置いてある部屋に滑り込み、本棚に並べてある約200冊の紙芝居を、次々と取り出しては「これは?どう?」と話し合っていました。

私も次々と引っ張り出して選ぶのですが、紙芝居の題名を読むたびに「これは知っている。これも、これも、紙芝居の内容を覚えているよ」と自分の記憶力に驚き、内容を覚えていない紙芝居や私の知らない紙芝居は無いのかと全ての題名を見て探したのですが、全て知っていたのです。

園児達は「これが良い」と多数決で、「ちびくろサンボ」が選ばれ、先生が最後の紙芝居を読んでくれました。私は満足し、来年から小学生になるので、胸を弾ませながら卒園したのです。

露天商

今回は「露天商」のお話です。

毎年2月に行われる祭りは、露天商が延々とつらなり、そのあいだを大勢の人が体をこすり合って移動しなければ歩けないほど、大きな祭りのひとつでした。

この街には親戚の家に両親と弟で数か月間住んでいたので、親に小遣いを貰い、ひとりで祭り見物に出かけたのです。私は幼い頃から、一回か二回通った道は覚えてしまうので、迷う事はほとんど無いのです。

この日は前日に雨か雪が降ったのでしょうか。アスファルトの道路は、多くの人が泥を付けた長靴で入って来た為、雨水と土が混ざってドロドロの状態でした。私は転んだら泥だらけになるから、転ばないように気を付けようと慎重に歩いていました。

私の前には、私と同じ年頃の男の子と母親が手をつないで歩いているのですが、体をこすり合うようにすれ違う大人達に、その男の子は自分の足の置き場が無くなり、何度も転びそうになるのです。密集状態なので、その男の子が倒れる事は無かったのですが、母親も我が子が少しでも傾けば、握っていた手を引き上げて起こすので、何事も無かったように、少しずつ人の流れに沿って歩いていたのです。私はその親子の真後ろに出来る隙間に身を置いていたので、悠々と歩けたので、周りの人や露天商を見物しながら楽しく歩いていたのです。

しかし、気が付くと、前を歩いていた男の子は、人混みに押され徐々に端に追いやられ、露店の商品と体をこすりながら歩く状態になってしまったのです。特に露店で売られているキャラクターのお面と、男の子は何度も接触しているので、私は(これは商品を傷付けるか、落としてしまうな)と考え、落とした時の事を考え、キャラクターのお面は、どう固定され、どう展示しているのか、お面の固定の仕方が分かった時でした。

前を歩いていた男の子が予想通り、お面を体でこすって落としてしまったのですが、その男の子は何事も無かったように振り返りもせずに去って行ってしまったのです。私は泥で汚れてしまったお面を拾い上げると、自分の服で汚れを落とし、傷が無いかをチェックし、お面を元通りに戻したのです。

私は店の隙間の奥に野球帽を深くかぶり、下を向いて座っている男性に気付き、怒られるかもしれないと思いましたが、見えていなかっただろうと安心して立ち去ろうとした瞬間、露天商の男性が「お前は将来、とんでもない大物になるよ」と突然言い放ったのです。

私は自分の行動をチェックされていた事に驚き、そして私が大物になると言われた事にも驚いてしまったのです。私は慌てて「え?大物?俺が?」と聞くと、その男性は「あぁーそうだ。とんでもない大物になるよ」と言ったので、私はその言葉が信じられず「大物になんてなれないよ」と言うと「俺は多くの人を見て来たから人を見ればどんな人物になるか、分かるんだよ。今まで外れた事は無いよ。お前は絶対に大物になる。俺が保証するよ」と真顔で言ってきたのです。私は驚いたままその場を立ち去りました。

私は家に帰る途中で、今回の出来事はすっかり忘れてしまったのです。この記憶を再び思い出したのは、あれから40年も過ぎた頃でしょうか。あの頃も今も私にとって大物になれるかどうかなど、興味が無いし、どうでも良かったんでしょうね。

将来の夢

今回は「将来の夢」について、話したいと思います。

幼稚園の時に、先生から「将来、大人になったら何になりたいのか、なりたい職業ややりたい事など、夢があったら紙に書いて下さい」と言われ、藁半紙が配られました。私の思考は未来を想像しながら、様々な事を考えていました。

最初に考えたのが、祖父の事でした。祖父は父親が放蕩息子だったので、家督を譲ったら全て失ってしまうと考え、私に相続させたいと常々言っていたので、祖父からは「お前は百姓になれ」と言われ続けていたのです。この当時、私が住んでいた農村では農作業をする人を百姓と言っていました。

次に考えたのが、どう考えても私の性格では農業に向いていないのです。私の性格は、せっかちで面倒くさがり屋、それに、作業をするなら、片っ端から少しでも早く、効率よく終わらせようとするので、その日の天気と自分の体調に合わせ、のんびり作業する百姓には絶対に向いていないと思ったのです。

それに、私の家の田畑の規模では、農業だけでは食べていけないと、祖父から聞いていたので、家督を継ぐなら、私もどこかの会社に勤め、兼業農家をするしか方法が無いのです。この当時も祖父母や母親は、日中は日雇いの仕事をして、朝早くから夜遅くまで農作業をやっていたし、休日も休まないで働いているのに、豊かな暮らしは出来ないほど貧しいのです。

この結果、私の将来の選択肢から、百姓は完全に無くなったのですが、私が農業をやらないと言ってしまえば、どんなに祖父は悲しむだろうか。祖父の悲しそうな顔が目に浮かび、どうすれば良いのかと考えた瞬間、閃いたのです。「そうだ!今は百姓になりたいと言っておけば、祖父は喜んで満足するだろうし、私が中学生になる頃には世の中も変わってくるので、百姓では苦労する事、機械化が進んで費用が掛かる事など、現実を見て祖父も理解するだろうし、二十歳前には説得が出来ると考え、今回は祖父の希望通りに、なりたい職業に百姓と書いたのです。

園児全員の名前と、なりたい職業を書いたプリントは、それぞれの家庭に配られ、祖父は私の予想を超えるほど大喜びし、満面な笑みで家族に自慢していました。私も同級生がどんな職業を書いたのか気になって、プリントを見ると、百姓になりたいと答えた人は私を含め3人ほどいました。

私は残りの二人も私と同じように、親や祖父などに気を使い、今だけ「百姓」と答えたのだろうと思いました。これは相手に確認しなかったので、私の想像で終わってしまいました。

その他の同級生も様々な将来の職業を書いていましたが、その中のひとりが驚く事を書いていたのです。将来なりたいものは「ビックX」。その当時、流行った手塚治虫さんの漫画のヒーローでした。私はニコニコしながら「わざとふざけた答えを書いて、人を笑わせるなんて、なかなかやるじゃないか。面白い同級生がいたもんだ」と感心しました。

次の日、将来ヒーローになると言った友達に「おまえって凄いな」と言うと「え?なんで?」と聞くので「だってヒーローになりたいなんて冗談を、堂々と載せるなんて」と笑いながら言うと「え?本当だよ。ヒーローになるんだもん」と、言いながら、友達の表情に嘘がなく本気だと知った時は、固まって動けませんでした。思わず「頭は大丈夫か?」って言いそうになりました。私には、どうしたら漫画のヒーローになれると考えられるのか、その思考に驚いたし、信じられなかったのです。

衝撃的過ぎて、この男の子の顔は一生忘れられない顔になったのですが、後にこの出来事を話したら、ヒーローに憧れる年齢だよね。数名の方からおかしいのは私のほうだと指摘されてしまいました。私の方がおかしい?そうなのかな?みなさんはどう思いますか?

腐っている食堂

今回は「腐っている食堂」について、話したいと思います。

両親と弟と4人でどこかに遠出をし、夕方に帰宅する事になったのですが、母親が外食したいと父親にねだると、家から7kmくらい離れた、周りが田んぼだらけの一軒家の古い食堂に入りました。

そこで頼んだのが、焼きそばと野菜炒めなど、数点を頼んで焼きそばが最初に出てきました。私は一口食べた瞬間、急いで外に出て嘔吐し、涙目でうずくまってしまいました。母親が驚いて「大丈夫か?」と聞いて来たので、私は「腐っている」と言って涙目で嘔吐を繰り返したのでした。

少し落ち着いてから店に戻り、店主と奥さんは私達を睨んで見ているだけで、謝罪はありませんでした。母親は睨まれているので慌てて私の焼きそばを一口食べると、私と同じ様に外に走り嘔吐を繰り返していました。母親も涙目で声に出して「腐っている」と言ったのですが、それでもお店の夫妻は黙って睨んで居るだけでした。

父親は慌てて「腐ってないよ」と無理やり何口か食べ、笑顔でお金を払って「ご馳走様」と言って、店を出たのです。私はこの父親の態度に驚き、何故腐っている物を平気で出す店主に媚びを売っているのか不思議でした。

普段は気に入らなければ怒鳴って殴る父親なのに、外ではおとなしい内弁慶なのだとこの時知ったのです。

その後、この店は跡形もなく更地になって消えてしまいました。

それはそうだよね。お客は誰も居なかったし、誰かに訴えられたのかもね。

離婚してくれ

今回は、私が幼稚園の時に、母親に「離婚してくれ」とお願いした時の出来事です。

ある日の事、父親の暴力に耐えられなかった母親が、「離婚する」と泣きながら大騒ぎしたので、親族のおばさん達が集まり、祖母を中心として母親を取り囲み、女性だけで離婚の話し合いをしました。

話し合いと言っても、母親以外は離婚には反対なので「離婚しても生活が出来ない」とか「子はカスガイ」とか、様々な言い訳をしては、離婚はするな!考え直せと言い寄っているだけなのです。

この時私は、頭の中で、父親の気分次第で、怒鳴る、殴る人と一緒に暮らして幸せになれるだろうか。どう考えても無理だよね。それより貧しくても良いから、父親がいないおだやかな人生の方が断然良いよなと、思ったのです。

しかし、祖母やおばさん達は「離婚はしないように考え直せ」と全員で説得し、母親も小さくうなずき始めたので、私は「この状況はまずい。押し切られて離婚しないと言ってしまいそうだ」と思ったので、慌てて母親の前に立ち「離婚してくれ。頼む。お願いだ」と言った瞬間、もう少しで母親を説得出来そうだった状況をひっくり返そうとする幼稚園児が現れたので、慌てて口々に「子供は黙っていろ。大人の会話に口を出すな」と何人もの人が、私を叱って来たのです。

おばさん達は「子供の為に離婚はするな」「子供の将来を考えろ」「子供に父親がいない事がどんな事になるか、考えろ」とか次々と言い放ってくるのです。

私は母親に「その子供の俺が離婚してくれと言っているんだ」「子供の為に、俺の為に離婚してくれ」と言うと、母親が「分かった。子供の為に離婚はやめます」と言ったのです。

私は驚き、この母親の思考はどうなっているのか、全く理解が出来ませんでした。我が子が離婚してくれと言っているのに、母親も毎日怒鳴られて殴られているのに、何度も離婚すると言っては大騒ぎし、親族会議をしているのに、それでも毎回説得され離婚はしないと判断する思考が、私には理解不能でした。その後、一切この母親の思考が理解出来ないので「離婚してくれ」とは言わなくなりました。

その後、幼稚園の帰りに迎えに来た母親が誰かに「よくあんな酷い事をする父親と一緒に暮らせるよね。この世の中であなたほど苦労している人は居ない」と言われたと言って、自分の不幸を嘆いていました。

幼稚園児の私は呆れ「この世の中であなたほど苦労している人は居ない?そんなはずは無いよね。それに、そんなに苦労しているなら、何故、あの時離婚しなかったのか、今からでも離婚すれば良いのに」と、思ったのですが、離婚をする気が全く無い母親を見て、悲劇の主人公に浸って満足している母親に、がっかりしたのでした。

しかし、この時代、私が住んでいる農家では、恋愛結婚ではなく、親が決めた人と結婚しなければ、親不孝な子供になるし、離婚もなかなか許されない時代でした。今よりも女性蔑視、女性への差別,男尊女卑が酷かったので、働く場所も少ないし、賃金もかなり安かったので、離婚した女性が子供を抱えて生きるのは、かなり困難な時代でした。

私は祖母達の説得を聞きながら、この時の状況や環境を知ったので、母親が離婚しないと決めた事に、仕方が無いと諦めてしまったのです。

米の運び屋

今回は「米の運び屋」の話です。

秋になった頃だろうと思います。母親の兄の奥さんが入院し、看護の為に夫婦で病室に寝泊まりする事になったのです。この当時の病院は完全看護ではなく、付き添いの家族が病室のベッドの下に置いてある、収納が付いている長椅子を出して、その上に布団を敷いて寝泊まりしながら看護をするのが一般的でした。

この兄夫婦には子供は居なかったのですが、この当時、小学4年生か5年生の女の子を養子にしていたので、入院している間だけ、その子の面倒を見る為に、両親と私と弟の4人で、そのアパートに数か月間、住む事になったのです。

このアパートは、一番近くにあった市なのですが、幼稚園からはバスで約40分ぐらいなので私ひとりでも通える距離でした。

私は時々お米が足りなくなると幼稚園の帰りに農家の家に戻り、一泊してから次の日、祖母に背負えるだけのお米をリュックに入れて貰い、幼稚園の鞄と重いリュックを背負って約2kmの距離を歩いてからバスに乗り、アパートに持って帰るのです。

その年のクリスマスイブの日に、いつものように、お米を取りに行き、次の日の朝に、アパートに戻ると、今まで見た事が無い細くて赤と白の渦巻き状のロウソクが転がっていました。私はそのロウソクを拾って「ん?これは?」と聞くと弟が「昨日クリスマスをやったからケーキ食べたんだ。そのケーキに付いていたロウソクだよ」と言った瞬間、母親が笑いながら「こら、兄ちゃんには言うなって、言ったでしょう」と、笑いながら弟に口止めをした事を暴露したのです。

私は驚きながら「俺の分は?」と聞くと「全部俺が食べたから無いよ」と、弟は自慢げに話して、それで終わりでした。それはそうだよね。この当時から、弟だけに何でも与え、私はいつも見ているだけでした。母親はいつものように「お前の分は無いよ」と、スッキリした笑顔で言った顔が今でも忘れられないのです。

この当時、ケーキなどほとんど食べられなかったのに、俺には重い米を運ばせ、弟が駄々をこねれば、俺の分でも平気で食べさせてしまう親。あなたはどう思いますか?この母親は、これ以降も、弟だけに物を与えるし、私の貰ったお年玉も全て奪って自分で使ってしまう人でした。

それに、私には病気になっても「男は手足の一本や二本折れても休むな、学校に行け」と言われ、どんなに具合が悪くてフラフラしながら「今日は歩けないから無理だ」と言っても、無理やり家を追い出し学校に行かせるのです。高熱で動けなくなるとやっと休ませてくれるのですが、弟が「兄ちゃんだけ休むのはずるい。俺も休む」と言えば「仕方が無いな」と笑いながら、弟には学校を休ませていたのです。

私はなんで?と何度も思ったのですが、具合が悪いので早く横になりたくて、それどころでは無かったのです。その後、何故弟だけ休ませるの?と母親に聞いたら「弟は小さいし、可哀想だから」と大真面目で言ったのです。この頃から母親は、平気で差別するようになり、弟が増えるたびに差別は酷くなっていくのです。

七夕祭り

今回は幼稚園の時の「七夕祭り」の話です。

私が住んでいる隣の市では、毎年仙台の七夕祭りと全く同じ飾り付けの七夕祭りが行われていました。まだ、テレビもあまり普及していない時代だったので、祭りには近隣の村の人達も大勢集まるので、朝から晩まで数え切れないほどの露店と、人波で活気に満ち溢れていました。

私も午前中から七夕祭りの飾り付けや、露店を物色しながら歩いていました。露店では珍しい輪投げ屋さんを見付け、幼稚園では輪投げが得意だったし、狭い露店では輪を投げる距離も極端に短いので、これは確実に商品が取れると判断し、迷わず挑戦する事にしました。

料金を払い、5本の輪を手渡されたので、一番手前の小さな商品を狙い、輪を投げたのでした。一本目が成功し、二本目、三本目と全て成功したのです。私は残りの二本を一番奥に並んでいる大きな商品に狙いをつけ、投げると見事に入ったので、続けて投げると、それも入ったのでした。私が投げた5本の輪は全て商品に命中したのです。

私は大喜びで店主を見ると「はい、これね」と手前の小さな商品を三つだけ手渡して、不機嫌な顔で黙っているのです。私は残りの大きな商品も渡すように言うと「あの二つの輪は商品の途中で引っかかって足元まで落ちていないから、ハズレだ」と言ったのです。私は驚き「後ろに並んでいる商品は全部、輪より大きいので、途中までしか入らない」と抗議したのですが、仏頂面で私を無視したので、これ以上、ここで粘っても駄目だと思ったので、その露店を後にしたのです。

しかし、私は安い料金で3つの商品も取れたし、全ての輪を命中させた事にも満足したので、喜んで帰宅したのです。

この七夕祭りも数年後には無くなってしまったので、私にとってこれが最初で最後の七夕祭りになってしまったのです。

肝油(かんゆ)

今回は「肝油」に付いて、話したいと思います。

肝油って知っていますか?ピンクの小粒の飴の様な物で補助栄養食品の様でした。今でも売っているようですが、私が幼稚園の時は帰りの時間になると、順番に並んで一粒ずつ貰ってその場で食べてから帰る事になっていました。小学生の時も6年間、夏休みの日数分の肝油を各自が買って、毎日食べるようにと指導されていました。

ある日の事、周囲を観察していると、一人一粒ずつ先生から手渡しで肝油を貰うのですが、ある男の子は急いで先頭の方に並んで一粒貰うと、駆け足で最後尾にまた並んでいるのです。良く観察していると数人の男の子達が同じ行動をして、何粒も貰っていました

その男の子達に話を聞くと最高で4つ貰ったと自慢していたので、次の日から私も挑戦してみようと思い、やってみました。私の場合、肝油が食べたい訳ではなく、先生が何故、何度も並んでいる園児に気が付かないのか、これだけ何回も貰っている人がいるのに、何故、周囲の園児達は気が付かないのか、注意をしないのか、など、不思議で仕方が無かったのです。ですから、自分が実際にやって先生や園児達の反応を確かめたかったのです。

そして実験を開始、一粒貰って最後尾へ急いで並びます。そして2粒目をゲット!貰えたーと喜び。また最後尾に並んで3つ目に挑戦をしたのです。

3つ目の肝油を貰おうと手を出した瞬間に、先生は私の顔を見て「さっきあげたでしょう?「二個は駄目です」と言われ優しく叱られました。先生はみんなに向かって「肝油は一人一粒です。二度並ぶのは駄目ですよ」と注意をしました。この時から二度並びは出来なくなったのです。何故なら、今まで真面目に並んでいた園児達が全員で目を光らせ、ズルをする園児達を監視し、全員で注意するようになったので、誰も不正は出来なくなってしまったのです。

私はこの光景を見ながら、大満足だったのです。何故なら、大人でも注意しなければ、気が付かない事がたくさんあるという事と、不正は駄目だと園児達の考えを統一すれば、不正をする人を、みんなで注意する事が出来るようになると分かったのです。

この時から私は様々な実験を何十年もするのですが、この実験で多くの事が学べるのです。例えば、悪い事って本当に悪いの?何故悪いの?どこが悪いの?何故駄目なの?などと考え、思考で答えを探し、それが正しいかどうか予想を立てるのです。しかし、頭の中だけでは正しいかどうか検証が出来ないので実験をするのです。実際にやってみると、周囲の反応や表情、態度や対応の仕方から様々な事が学べるのです。嫌われてしまう場合が多いですが、収穫も多いのです。

私の場合、人に好かれて生きるより、ひとつでも多くの事を学べる人生を無意識に選んでいたので、幼い時から実験を重ねて行くのです。

猿と言えば怪我をする

今回は、「猿と言えば怪我をする」に付いて、話したいと思います。

我が家だけだったのでしょうか?私が幼稚園の頃だけしか聞いた事が無いし、他の人に確認しても誰も知らないって言うんだよね。

どんな内容かと言えば、うちの爺ちゃんが「朝は絶対に猿とは言っては駄目だぞ。猿と言うと家族の誰かが怪我をするから絶対に言うな」と、怖い顔で真剣に私達に言い聞かせていました。

ある日の朝、私が幼稚園に行く支度が遅れ、2km離れたバス停まで、中学生のおばさん、父親の妹が自転車で送ってくれる事になりました。私は自転車のハンドルに着けた子供用の座席に座り2人乗りで出発したのでした。

ちょうどバス停まで半分の距離まで来たところで、私のつま先が走行中の前輪に挟まり、急ブレーキが掛かってしまい転倒したのです。幸い私の足に怪我はなかったのですが、おばさんはあちこちに少し擦り傷が出来てしまいました。この頃の道路は舗装されていないので、砂利道が多く水溜まりがあちこちにあって自転車やバイクは走りづらく転倒しやすい状況でした。

転倒する前、私は乗っているだけで暇なので、どこまでつま先を前輪に入れられるか、テストしていたのです。私は「このあたりまでは大丈夫かな?もう少し車輪につま先を入れても大丈夫かな?などと実験していたら、砂利が多い場所を通ってしまいバランスが崩れたので、その拍子に私の重心も前に傾き、すっぽり足が車輪に入ってしまったので、自転車が転倒してしまったのです。全ての原因は私の行動でした。

おばさんは私の事が心配で「大丈夫?大丈夫?」と必死で私の体をチェックしてくれ、怪我がない事を知ると安心したのかホッとしていましたが、転倒した事を何度も私に謝ってくれました。うーん。気まずい。でも、自分が故意に足を入れたのが原因だとは、とても言えませんでした。

家に帰って夜になると爺ちゃんが「誰か、朝に猿って言ったか?」と何度も聞いてくるので、みんなが首をかしげていると「私かな?言ったような・・」と別なおばさん。父親の一番下の妹が言ったので、爺ちゃんは得意げに「な、ほら、言った通りだろ。だから朝は猿って言っては絶対駄目なんだぞ。気を付けないとな」と言っていました。

私は怪訝な顔で、ん?本当にそうなのか?と思ったのですが、おおざっぱな性格なので全く気にせず次の日の朝から小さな声で「猿!」と毎日小声で言い、何日か観察したのですが何も起こりませんでした。それはそうだよね。言葉や発音にそんな力は無いし、猿に失礼だよね。

もし仮に、言葉や発音、呪文に力があるのなら、科学者が調べて研究して、危険な言葉なら禁止しているはずですよね。しかし、禁止されている言葉や呪文なんて、聞いた事が無いよね。と、いう事は、自分でテストした結果からも言葉や発音、呪文には何の効果も無い事を知ったので、これ以降、その手の話は無視する事にした幼稚園児でした。

サクラ

今回は、夏祭りの屋台で起きた出来事「サクラ」のお話です。

私が住んでいる場所は農村なのですが、約10km離れた場所に人口約4万人の市があり、年に数回の祭りが盛大に行われていました。

お祭りの屋台では様々な商品が売られ、ワクワクしながら見て回っていました。ある一軒の露天商の商品は、くじで高級なおもちゃが当たるお店で、リモコンの自動車やトランシーバー無線など大きな箱に入って、特等から順に1等2等と棚に並べられていました。私は少ないお小遣いを握りしめて「こんなおもちゃが当たれば良いな~」と思いながら、二 三回引いてはずれてしまったので、何気なく露店の片隅で邪魔にならない場所に移動し、他の子供がくじを引いている姿をぼんやり眺めていました。

このくじは外れると何も貰えないので、何人もの子供がくじを引いては外れてしまい、がっかりして店を後にします。(そんなに簡単に当たらないよな)と、私は思いながら観察を続けました。え?何の為の観察かって?当然、くじに当たる運の良い子供って、どんな子供なんだろうと興味があったので、高級品を当てる子供が現れるまで見ていようと思いました。

そう思った瞬間、露天商の男性が棚に並べられたリモコンの自動車を棚の後ろに隠し、くじ引き用の大きな鐘を鳴らしながら大声で「リモコン自動車を当てた幸運なお坊ちゃんが出たよ。早くしないと良い商品がなくなるよ」と叫んでいます。私は思わず棚の後ろに隠したオモチャを確認して、露天商の行動に驚いていました。そして、また、客が減ると、商品を棚の裏に隠し、カランカランと鐘を鳴らし、「また当たったよ」と叫んでいたので、この屋台のくじ引きには当たりくじは無いんだと確信しました。心の中で「くじを引かなくて良かった~。お小遣いが無駄になるところだった。しかし、考えてみれば、こんな安いお金でくじを引いて、あんな高級なおもちゃを当てられたら、大損だし、この露天商の男の行為は当然の事だな」と、納得して、その場を離れたのです。

家に帰ってこの出来事を話したら父親が今回のように商品を隠して売れたように見せる方法や、ガマの油売りやバナナのたたき売りなどで、一般のお客の振りをして商品を褒め、威勢よく買って周囲のお客さんの購買欲をあおる行為をするのが、サクラという商売方法だと説明してくれたので、初めてサクラの存在を知ったのでした。

考えてみれば、一回のくじ引きの代金で、あんな高額な商品を渡していたら、大赤字だし破産してしまいますよね。それに商売なので、サクラを使って売ろうと考えるのも仕方が無いのかと思います。ですから、

これ以降、くじは当たらないものだと理解し、外れくじを引く事を楽しんで、数回ほど引いた事はありましたが、それ以降は興味が無くなったので、露店でのくじ引きなどは、やらなくなってしまいました。

みなさんは外れくじを引く事を、楽しんでいますか?

誰が親分?

今回は「誰が親分?」の話です。

幼稚園に通っていた頃、今の様にスクールバスも無いので、約2km位歩いてから国鉄のバス、今のJRのバスに乗っていたのですが、このバスに乗るのには、峠を歩いて越さなければ行けないので、平坦な道を歩いて行ける、民間経営のバスに乗り換える事にしました。このバス停から乗ると、同じ幼稚園に通う同級生も多いので、一緒に通う事になったのです。

この当時のバスには運転手と切符を発行する女性の車掌が乗っていて、その車掌の中には母親の実家の近所に住んでいた女性がいたので、顔見知りだったのですが、時々同じバスに乗り合わせていました。この当時のバスの中での出来事を、この女性から母親が色々と聞いていたらしく、私が小学5年の頃に、その時の様子を聞かされ、その内容に、私の行動に驚いてしまったのです。

母親から聞かされた話の内容は、同じ幼稚園に通う同級生達数人と乗っていたのですが、バスに乗ったら全員立ったまま座らないそうです。え?どうしてかって?それは私がみんなの座る場所を指定して、座って良いと合図しなければ誰も座らなかったそうです。母親は俺を見ながら「馬鹿。みんなに命令するな」って笑いながら言われましたが、その時から5年も過ぎて言われても、私には記憶になかったので、自分の記憶をたどりながらやっと記憶が蘇り「確かに。そんな事があったな」「俺って親分だったのかな?」「みんな俺を恐れていたのかな?」と、過去の自分の行動を照れながら反省しました。もちろん小学生になってからは、バス通では無いので、命令はしていません。多分ですけどね。

この親分になる方法は、この幼稚園の時の私の行動を分析したら、簡単に仕組みが分かったので、高校生の電車通の時にテストをしたら、簡単に出来たのでした。人間って本当に単純ですよね

私の場合、今もそうですが、仕組みが分かれば、それ以上の事にはあまり興味が無いのです。

ユニフォーム?

今回は「野球のユニフォーム」の話です。

幼稚園の梅雨の頃だろうと思います。

幼稚園の帰り道、峠を越え、ふもとの部落に通り掛かった時です。母親と男の子が待っていて、同級生なので友達になってくれと母親に言われたので、承諾し、その場にあった柔らかい土で一緒に遊んでから帰りました。この土は農作業に使う土なので、振るいに掛けられ、柔らかくしてあるのです。

家に帰ると祖父から「橋が流されると危険だから、幼稚園に行かせないと言った母親が、我が子と友達になってくれと頼みに来たから、友達になってやれ」と言われたので、「さっき紹介されて遊んできたよ」と伝えると、うんうんと祖父はうなずき、この日は終わったのです。

しかし、それから数日後、梅雨が明けた頃から、峠を超える道ではなく、反対側の平坦な道を通うようになり、その男の子が住む部落を通らなくなってしまったので、会わなくなってしまったのです。

小学校の1年か2年の時だったでしょうか。初めてこの男の子の家に遊びに行った時でした。「野球する?」と聞いてきたので、私は「うん」と答えると、その子は有名なプロ野球のユニフォームとロゴ入りの野球帽をかぶり、バットとグローブを担いできたのです。

この当時の私は、みそ汁と漬物だけの食事がほとんどだったのに、玉子は一か月で1回食べられればいい方なのに、この男の子は、同級生なのに、同じ農家なのに、これほど差があるのかと驚き、呆然と男の子を眺めていたのです。

私はこの男の子が羨ましいとか、良いなとか、思ったのではなく、どの家に生まれるかによって、生まれた家の財力によって、これほど子供に影響があるのかと驚いただけなのです。

弁当とご飯

今回は幼稚園の時の「弁当とご飯」のお話です。

祖母も母親もあまり料理が好きではないので、美味しい物をまずく作る天才でしたし、適当過ぎる人達でした。

幼稚園には毎日弁当を持って行くのですが、ある日の昼食の時間に弁当を開けると隣の子が驚き「〇〇君のお弁当、凄い!」と大きな声で言ったのでクラス中の人達が集まり、先生も見に来るほどでした。

そんなに驚く弁当とは?と思うでしょう?私が弁当のふたを開けると、ご飯の真ん中に納豆だけしか入っていない弁当が現れたのです。私も驚き、一瞬固まってしまいました。納豆は年に数回しか食べられないご馳走なのですが、おかずが納豆だけの弁当って凄くないですか?では、普段の弁当のおかずは?と聞かれても、全く記憶にないので、何とも言えませんが、この納豆だけの弁当には、驚かせられました。

その日の午後、先生から手紙を貰って親に見せるように言われ、持って帰って母親に見せると「子供の栄養を考え、もっとおかずを入れて下さい。」と笑いながら言っていました。その9年後、3番目の弟も全く同じ事をやられ、やはり手紙を渡され、同じ注意をされたようですが、反省する気は無いようでした。

もっと酷いのが、幼稚園に弁当を持っていくようになってやっと気が付いたのですが、夏の日は、午後の2時以降になると、お昼に食べられなかった弁当や、家に帰って食べるご飯はとても危険でした。ご飯を食べようと箸でつまむと納豆のようにネバネバと何本も糸を引いているのです。これは腐っている証拠なので食べられませんが、捨てるのは勿体ないので、糸を引いたご飯をザルに入れ、糸が引かなくなるまで水洗いをし、蒸し器で蒸かしてから夕飯として食べていました。

お米の表面が腐っているので、洗う事で雑菌を流していたのでしょうね。お米は出来る限り農協に売らないと現金にならないので、年に数回、そばやうどんで代用して、お米の消費量を抑えていたので、糸を引いたご飯でも、捨てる事が出来ないので、洗って食べていたのです。

私が五十歳を過ぎた頃に同じ年代の人に「あの頃のお米って何故あんなに糸を引いたんだろうね?」と聞くと、その方は驚き「え?お米が糸を引く?そんなの見た事がないよ」と言われ、私の方が驚き「え?うちだけ?え?何で?」と考えていると、「多分それって弁当や茶わんをよく洗っていないのでは?」「えー!洗っていない?」「うんうん。だから雑菌だらけだから、糸が引くまで腐ってしまったのでは?」と言われ、理解が出来たのです。

そうなのです。思い出してみれば、うちの母親も祖母も適当だったし、ご飯を食べたら洗剤が食器にたくさんついていて、吐き出した時もあったし・・コップは水でちゃぽちゃぽってゆすぐだけだから、透明なコップは全て真っ白になるほど汚れていたしね。だから、自分のコップだけは、飲む前に洗剤で丁寧に洗ってから使っていた事を思い出したのです。

雑菌だらけの食事を、高校を卒業するまで食べさせられていたので、食中毒にも花粉症にもならない強い体に育ったのかも知れませんよね

注射

今回は「注射」のお話です。

注射は好きですか?と聞かれれば、嫌いな方が多いですよね。私が通っていた幼稚園では予防接種や検査など年に何回か行われていましたが、注射が嫌いな園児達にとっては、予防接種の日は恐怖の時間でした。ある大きな部屋に白衣を着た男性の先生と看護婦さんがいて、順番に並んだ園児達が自分の番を待っています。

注射を打たれて泣きじゃくる子や、絶叫している子もいます。その声が静かな部屋に響き渡り、順番を待っている園児達に恐怖心を植え付けます。その恐怖に耐え切れず、注射が終わっても平気な顔で帰って来る同級生に「痛くないし平気だよ」と言って欲しくて「ねえ、痛かった?ねえ、痛かった?」と何人にも確認していた子が数人いました。泣いた子に聞いたら「痛かった」と絶対に言うので、誰も泣いた子には聞かないのです。

注射の順番が来ると、注射針は6本とも全てこちらに向けてあったので、その注射針の太さと鋭くななめにカットされた断面が見えるので、さらに恐怖になってしまいました。

この時代の注射針は、現代の注射針のように細く加工する技術が無かったので、かなり太かったし、使い捨てでは無かったので、注射針を消毒液に浸した脱脂綿で拭いただけで使いまわしていたのです。

私はいつも注射をされるたびに「何故、子供の目の高さに置かれた注射針が、園児達の方に向けて並べて置くのだろうか?横に向けていてくれたら、少しでも恐怖心は減らされるのに、大人達は園児の立場では考えないのか、考えられないのか?と注射をしている先生と看護婦さんの顔を見ながら思っていたのです。

ある日の事、先生から順番に並んで下さいと言われ並んでいると、恐怖の注射の日でした。私にとって注射は嫌いだし、恐怖心が強かったので、並んでいる列から離れ、注射を終えた子に次々と「痛かった?ねえ。」と聞いて回っていると先生が駆け寄って来て「終わった人はこっちですよ」と言って注射を終えた子と私は一緒に別な教室に誘導されてしまったのです。私は思わず「え?俺、終わった?うんうん。今日の注射は終わった~」と大喜びではしゃぎました。それに気が付いた園児達が「ずるーい」と言ったのですが先生から「静かにしなさい」と一喝。私は一人で小躍りしていました。

次の注射の日もこの手で行こうと思い、2回目の挑戦をしたのですが先生から「きちんと並びなさい」と言われ、注射が終わった子について行こうとしたら「君はまだでしょう?こっちに並びなさい」と見つかり、騙せない事を知ったので、この手は使えないなと諦めたのです

大人になって考えてみれば大事な予防接種をしていなかったのだから、損をしていると考えられるのですが、さすがは幼稚園児の思考能力、一回の注射を避けたくらいで有頂天になれたのです。己の愚かさを知らない幼稚園児の私でした

本物のゼロ戦

今回は「本物のゼロ戦」に付いて話したいと思います。

静かな田舎の幼稚園に、突如、バリバリと天を裂くような爆音が空から聞こえ、先生達と一緒に外に飛び出し、空を見上げました。空には日の丸がついた飛行機が二度旋回してパイロットが手を振っています。私達も手を振りながら飛行機を見送りました。先生から「あれはゼロ戦と言って日本が戦争した時に乗っていた飛行機だよ」と教えて貰いました。

あのゼロ戦は、日本の空をもう一度、飛ばしたいと、アメリカで修理され、わざわざ日本に運んで、ゼロ戦の雄姿を日本の人々に見せる為に、横断飛行をしてくれたと、新聞のニュースで知る事が出来ました。

その後、小学2年の頃に、父親がステレオと何枚かのレコードを買ってきたので、その中の一枚の軍歌、「若鷲の歌」が気に入り、何度も何度も飽きる事無く聞いていました。この頃の私は、戦争経験者の爺ちゃんにほんの少しだけ聞いていただけで、あまり知りませんでしたが、この曲は予科練と言って10代のパイロットを育てた学校の歌だったと知りました。

ある日、予科練とはどんなものかを教える為に、父親が私を映画館に連れて行き、予科練の映画をみせてくれたのです。内容は学生達を育てる為に、怒鳴る、殴る、バットで殴るなどのリンチと、常に空腹との戦いをしている学生の姿でした。そして予科練の生徒達は戦場に配備され、次々と特攻で戦死する映像でした。私は悲しくて涙が溢れました。

それからしばらくして、予科練で死んだ人達の遺書をまとめた本を、父親が見つけて買ってきたので私も読んだのですが、涙が止まりませんでした。10歳の私が後5年もしたら、予科練で練習をさせられ、敵の艦隊に突撃して自爆しなければならない。特攻は嫌だとは思っても絶対に言えない。もし嫌だと言ってしまえば、特攻を拒否すれば、家族が「非国民」とののしられ、罵倒され、仲間外れにされるこの時代、誰も特攻の命令に逆らえる人は居なかったと教えられました。

そして、この本で最も驚愕したのは、私の記憶の中では、なんと11歳の少年達が遺書を書いていたのです。私は絶句し、本当なのかと疑ってしまいました。11歳の小学生に特攻をさせるなんて、日本の司令官達は正気なのか、愚かな人が司令官だったのか、自分の子供でも特攻させるのか、と私には理解が出来ませんでした。

後で知ったのですが、権力を持っていた人の子は、安全な場所で生きて居たと知った時は、人間の浅ましさに、人間の世界のレベルの低さに、がっかりしたのでした。

ブランコ

今回は、幼稚園で起きた出来事のひとつ「ブランコ」について話したいと思います。

この記憶は自分でも何度か疑った事がある記憶です。

幼稚園のブランコの中に、ひとつだけ、丸い輪っかを繋ぎ合わせたチェーンだけのブランコがありました。ある日の事、みんなでブランコに乗っていると、一人の男の子が、そのチェーンのブランコに乗って、大きく漕ぎはじめ、徐々にふり幅が大きくなり、みんなが驚いてみている中、一回転、二回転、三回転とグルグルと回ってしまったのです。それを見ていた人達は、大歓声を上げると、先生が素足で教室から飛び出してきて、慌てて男の子を制止し、強い口調で注意をしていました。それから男性の先生達を呼び、数人がかりで絡まったチェーンを直していたのです。

私は「凄い奴がいるな」と驚いて見ていたのですが、この光景が本当なのか、夢でも見ているのではないかと、何度も何度も自分の目を疑った記憶なのです。

その後、負けず嫌いな男の子達は、自分にも出来ないものかと、何度もブランコの大回転に挑戦しますが、大きく漕いで、ふり幅が大きくなると、恐怖で少しでも漕ぐ力を弱めてしまえば、失速してしまうので、落下するように振り子運動を止めてしまうのです。その恐怖を克服出来る人は居なかったので、誰も大回転は出来ませんでした。

どうしても大回転が出来るようになりたいと思う友達は、その男の子に何度もアドバイスを聞いていたのですが、それでも出来ないので、その男の子は手本を見せるように、何度か先生の目を盗んでは、ブランコの大回転を見せてくれたのです。しかし、絡まってしまったチェーンは幼稚園児では直せないので、簡単に先生にばれてしまい、やるたびに叱られていたので、それ以降は、やりませんでした。

え?ブランコで大回転なんて出来ないって?いやいや、小学生になると出来る子は何人かいましたし、他の人に聞いたら「うちの小学校でもやっていた生徒がいたよ」って言っていました。

誰でも出来る事と出来ない事はありますが、試行錯誤の数を増やし、出来る方法探す事が出来れば、出来る事が増えるという事ですよね。ですから、何もしていないのに、出来ないと諦めてしまえば、出来る事は増やせませんよね

初恋

私の初恋は幼稚園に入った時でした。

別のクラスの女の子でしたが、とても可愛くて好みのタイプでしたので、一目ぼれしてしまったのです。

しかし、幼い時から、今でもそうですが、自分の容姿や才能など、自己評価がとても低い私は(こんな可愛い子は、私の事を好きにはならないだろう。だから見るだけで終わりだな)と諦めてしまいました。今でも綺麗な人を見ても、私の外見では興味が持てないだろうし、引く手あまたの彼女からすれば、私は道端の石ころと同じだよなと思ってしまうので、素通りが基本なのです。

村には小学校は5つあり、彼女とは住んでいる地域が違うので、別々の小学校に行く事になるので、会う機会は無いのですが、中学生になると5つの小学校から、生徒が集まってくるので、再開するチャンスなのですが、諦めてしまった私には、彼女に対しての興味は無くなっていたのです。

寒いある日、全校生徒が体育館に自分の椅子を持って行き、クラス毎に椅子を並べて座ろうとした時に、凄く長いマフラーを何重にも首に巻き付けた女性が居たので「温かそう。いいな」と言うと「いいよ。長いから半分首に巻く?」と言ってくれたので、私はその彼女の隣の椅子に座って、半分のマフラーを首に巻いて「温かい」とほっとしたのでした。

彼女は満足したように笑みを返してくれたのですが、この彼女が幼稚園の時の初恋の人だったのです。彼女の微笑みは、優しくて柔らかくて、暖かい気持ちになったのですが、私の初恋の人だったとは告白をせずに、席に座るように先生に言われて、お礼を言って自分の席に戻ったのでした。

彼女の名前は確か「美智子さん」だったかな?

表郷村の金山にある小さなスーパーの近くを通った時に、友達からここが彼女の家だよと教わったのでした。

何故彼女に初恋の人だったと告白しなかったのか、それは私と結婚すれば、もれなく酒乱でただで酒が飲める相手を探し、気に入らなければ暴れる父親が付いてくるので、彼女の家族に迷惑がかかると予想が出来たので、告白しない方が良いと判断したのでした。

それに中学2年の時に自分の子供は作らないと友達に話をしたら「子供を産むのが女の幸せと言われているのに、子供を作らないと宣言すれば、結婚相手は居ないよ」と言われたので(それもそうだよな)と思い、接近する事をしなかったので、私の初恋はここで終わったのでした。

タケノコ騒動

今回は、幼稚園の通園中に起きた「タケノコ騒動」に付いて話したいと思います。

私が通っていた幼稚園に行くには、片道2kmくらい歩いてから、公共のバスに乗って行くのですが、山越えの道を通って行くのか、別方向の平坦な道を行くのか、2通りありました。最初の頃は親達の判断で、この山越えの道を隣近所に住む女性と男性の3人で歩いて通園していました。

ある朝の日の事です。山の頂上付近にタケノコが出ているのを発見し、大喜びで収穫して担いで歩いていました。そのタケノコは大きくて重いので、少し歩いたら疲れてしまったので、近くの家に持って行き「食べて下さい」と言って手渡し、「ありがとうね、ごちそう様」と言われ、満足しながら幼稚園に行きました。

その日の帰り道。タケノコを採った場所で、知り合いの男性に声を掛けられます。「家のタケノコを盗んだのはお前か?」と言って来たのです。私は「盗んでないよ」と言うと「タケノコを貰った人がどこの家のタケノコだろうと、一軒一軒聞きまわったから、お前が採った事はばれてんだぞ」と言われたので、私はうなずき「そうだよ。でも、盗んでいないよ」と答えると「ここは私の土地だぞ。お前が採ったタケノコは俺の物だ」と言ったので、私が「どこからどこまでが誰の物ってどうやって決めているの?」と質問すると、「ここからここまでが私の土地だ。この境界線が見えないのか」と言って境界線を決めるコンクリートで出来た杭を指さして言ったのです。

この頃の私は、山が誰かの土地だって事も知らないし、どこからどこまでは誰々の山だって判断しているのか、全く理解が出来なかったのです。ですから、私は境界線の杭を見ながら「どこに境界線があるの?線なんて見えないよ。」男性は驚いて「え?線は見えないけど、 あそこの谷からこっちが私の土地だ。そこに境界線の杭が見えるだろう?向こうにも杭があって、その杭とこの杭を結んだ線が、境界線だ」と教えてくれたのですが、私には理解出来ないので「え?だって線が見えないもん。誰の土地かわからないよ。そんなに言うなら線を書いて誰にでも見えるようにしてよ」と言うと、男性が「え?そんな事出来るか!」と絶句し、それでも私は「境界線は見えないし、タケノコにも名前が書いてなかったし、俺が採ったから俺の物だよ」と主張します。

男性は呆れて「だから、違うって」。私は自分の主張を曲げずに「だったら誰にも分かるように、境界線を見えるように書いて、これは誰のタケノコだって名前を書いておけよ」と、強気に反論します。相手の男性は呆れたように私を見つめ「まったくお前は・・・何度言ってもわからんのか」それでも私は「だから見えない境界線なんか分かるか!誰にでもわかるように縄を張っておけ」と言うと、男性は黙ってしまいました。

男性は呆れ果て、説得出来ないと思ったのか「採ったタケノコはあの家にくれたんだな?」私はうなずくと「自分の家で食べたのではなく人にくれたのなら仕方がない。今回は許してやるから二度と採るなよ」と念を押された。それはそうだよね。でも、土地の境界線を理解するのにはまだまだ時間が掛かるので、その後に全く同じ事件、同じ反論で、隣の家の柿を食べつくしたのでした。

橋が流される?

今回は幼稚園になったばかりの頃に聞いた話で「橋が流される?」を紹介したいと思います。

幼稚園に入った頃に、隣の部落に私と同じ歳の男の子が居ると聞いて「何故、幼稚園に行かないの?」と祖父にたずねると「幼稚園に行く時にあの小高い山を越えて行くだろう?」私はうなずき答えると「山を越えたら大きな橋があるよな?」「うんうん。あるよね」

その橋は、丸太の上に土を大量に盛り、硬く固められた頑丈な橋でしたし、手すりも付いていたので、安心して渡れる橋でした。

私は「その橋がどうしたの?」と聞くと「その男の子の親がな、台風や大雨が降ったら、川が増水して、橋と一緒に我が子が流されてしまうから、危険だから幼稚園には行かせないんだとよ」と祖父は呆れた表情で教えてくれたのです。

私も心の中で(え?台風?大雨?そんな危険な日は、幼稚園は休ませるだろうし、危険だと判断したら、外にも出さないよね。それも年に数回あるかどうかの話なのに、それだけの理由で我が子を幼稚園に通わせないと考える親が居るなんて)と、驚き、幼稚園児の私でも呆れてしまったのです。

私にとって幼稚園は、驚く事や知らなかった事、自分と違う考えややり方、人付き合いなど多くの事が学べて楽しいのに、それを知る機会を、親の身勝手な判断で奪われてしまったのかと、子供の思考能力の成長に親の考え方が大きく左右される事を、初めて認識した日になったのでした。

IQテスト

今回は「IQテスト」に付いて話したいと思います。

幼稚園生になって間もなくの事です。子供の目線では隣が見えない高さの衝立が、あちこちに立てられ、何部屋にも仕切られていました。私と爺ちゃんはその中のひとつの部屋に通され、男性の前に座るように促され、私と爺ちゃんは用意されていた椅子に座りました。

その男性が一枚のボードを私に見せて「これは何に見える?」と聞いてきたのですが、ボードには、様々な色に塗られた小さな丸がたくさん書かれていたのです。

私は(え?何に見える?・・・え?何かに見えるの?・・ただ、小さなまるに色を付けただけだし・・で?なんて答えれば良いの?・。何にも見えないよ。)と困っていると、仕切り板の上に腕を乗せた、担任の女性の先生が顔を出して「みんなはね、蝶に見えるって言っていたよ」とアドバイスをしてくれたので、私が「蝶」と答えると、次のボードを見せられ「これは?」。私はどう答えて良いのか分からずにいると、先生が「それは象に見える子が多いよ」と言ってきたので、私も「象」と答えました。

次のボードを見せられても分からないので困っていると、また先生が「〇〇に見えるらしいよ」と、アドバイスを受けたので、私は何故、そう見えるのか、分析をしてみました。

あっ。・・なるほどね。・・色の濃い箇所をつなげば、そう見えるのか。なるほどね)と理解した私は次に出されるボードを待っていたら、別な質問になってしまいました。それから数分でこのテストは終わったのですが、私には何のテストなのかもわからず、この出来事はすっかり忘れてしまいました。

小学校に入り、何年生の頃だったろうか。多分小学四年生の頃かな?・・先生が教室の入り口で「幼稚園の時にやったIQテストの結果が来たので発表しますねと、突然言い、内容を読んで「このクラスには特別IQの高い人はいませんでした。以上です」と言って、先生は帰ってしまいました。私は「え?IQテスト?幼稚園の時にやった?と同級生に聞くと「小さなまるで点々と色を塗ったボードがあったでしょう?あれがIQテストだったんだって」と聞き(あれか~・・だってあれ・・俺・・先生に言われた通りに言っただけだしな。・・俺の本当のIQって・・どうなんだろう?・・。ま、関係ないやと考え、また記憶から消えて行ったのでした。

その後、20代の頃に、転職しようとした時にも、IQテストだったらしいのですが、かなり早く暗算が出来たようで、「ここまで計算が早い人を見た事が無い」と、担当者が驚き「このテストは何回目?」と聞いてきたので、「え?初めて見たので」と答えると首をかしげながら「こんなに早く出来ないのに」と、私の顔と答案用紙を交互に見ては、驚いていました。この当時の私は、土建屋さんで現場監督をしていたので、測量の時に6桁の足し算、引き算はその場で、暗算で出来たし、1桁の暗算は簡単過ぎたので、その意見に驚いたのです。